プロローグ

四月 第二週

という予感がしていた。これは決して強がりではない。その証拠に奏は、この感覚は皆が共有しているものだとさえ思っていた。

「別に嫌みで言ったわけじゃねぇよ」

奏は作り笑いを浮かべて拓巳と光に戯けてみせる他無かった。それほど他のクラスメイトと違い、拓巳や光は自分と感覚を共有できる人間だと思っていたことが裏切られたショックは大きく、ついにその日の2人の進路の話の輪に加わることは無かった。

その日の授業は、どの科目の担当も進路のことや大学のことを冒頭に触れていた。いつもは物静かな初老の家庭科担当の加藤幸子でさえも、1学期のカリキュラムの説明をしたあと、付け加えるように評定のことや受験のことを熱っぽく語ったときには、

「おいおい、マジかよ」

奏は思わず、そう言ってしまっていた。

「マジですよ?大まじめです。あなたも受験生なのですから、時任君」

白髪が交じり、先生と言うよりは、何処か近所のおばあちゃんを彷彿とさせる加藤の語り口はやけに落ち着いており、ともすれば威厳さえあったかもしれない。普段はそんなことを感じることなど無いはずの奏でさえそう感じる程、4組の空気はこの始業式の1日で変わっていた。いつもは居眠り常習犯の拓巳もこっくりこっくりしながら自分でノートをまとめていたし、いつもはつまらなくなると枝毛を探すことに夢中になる光も髪に触れること無くちゃんと授業を聞いている。

ここで奏は今朝から抱いていた違和感に気がついた。おそらく、この4組の雰囲気も、襟についたⅢのバッチも、すべて奏に『着せられた』役割なのだ。奏が求めていたものでも、欲していた物でもなく、17歳の春まで生きてきた月日の経過の副産物として与えられたモノなのだ。そして、4組の大多数の人間は多少の戸惑いや不安を抱きつつも、その役をしっかりと演じようとしているのだ。奏は直感的にそれは『正しいこと』だと認識できていたが、自身がそうなることに何処かむず痒さのようなものを感じ、素直に受け入れられずにいた。もちろん、受験はするつもりだし『何時か』はそのタイミングは訪れるのだが、決して『今』では無い気がした。まして、他人からの働きかけによりそのスイッチが入ること自体、大きな違和感だった。大丈夫—いつでも自分の事は自分で決めてきたし、これからもそうだ。奏にはその自信があった。きっと拓巳も光もそうだと思っていたが、そうではなかった。この日の出来事は奏の脳裏に深く刻まれることとなった。

3年4組はその後、暫くは先生達が言う『受験生らしさ』なるものを備えた優等生たる姿勢を示していたが、最後の大会に向けて部活動が激しくなるにつれて、居眠りや集中力を欠いた態度で授業に臨むようになっていた。現国の時間に必死に目薬をさして眠気と戦っている光を横目に奏は内心、やっぱりなと思うと同時に、クラスメイト達に勝った気分になっていた。所詮人間は簡単に変われないし、自分を変えられるのは自分しかいない。その信念をこの2週間でクラスメイト達が証明してくれた—そのように感じていた。

 

高橋が3年4組を受け持つようになってから早2週間、3年4組の生徒達は高橋にとって及第点と言える成長ぶりを見せていた。3年4組を担当する各教科の先生達からの評判は上々で、高橋に口々に「今年の3年4組は違う」や「一体、何をしたんですか?」などと言葉を投げかけていた。高橋は確かにそのことが誇らしく思えていたが、同時にやはり時任奏のことが気がかりだった。この2週間、奏に焦りや苛立ちのようなものを一切感じなかったのだ。それどころか、部活に勉強にと慌ただしく動き回っているクラスメイト達をさも自分に関係の無い、全くの他人のように遠目で見ている節さえあった。しかしながら、これも杞憂に終わるのでは無いかと思わせるデータもあった。一学期の最初の週末に行われた実力試験だ。試験範囲は高校2年間で学習した全て、そして試験のタイムテーブルは翌年一月の共通試験を意識して設定してある。そしてその翌日には、生徒順位の張り出しが行われる。この実力試験は、浅葱西校の伝統行事だ。ここでの奏の成績は、4組ではトップの48位。毎年200名前後を国立大学や上位私立校に送り込んでいるこの高校の母集団を考えれば、高橋をおしても、大学進学は今のところかなりカタいと言える。高橋としてもこれは嬉しい誤算であったが、担当している世界史の観点から言えば、奏はまだまだ得点できたと感じざるを得なかった。たしかに歴史の流れや、要所要所の知識はしっかりとあるのだが、単純な年号や少し努力すれば得点できたはずの問題はことごとく不正解だったのだ。手を抜いているのでは無く、これは何となく勉強してきた者特有の現象だった。ここに高橋は時任奏という男の本質を見たような気がした。本気で無いのだ。いや、もっと突っ込んで言えば、本気になったことが無いのだ。大抵の事は何でもそつなくこなすことができ、いや、正しくは、出来てしまうが故に、何かに対して熱くなったり、本気で向き合ったりしたことが無いのだ。高橋からするとこの傾向がある生徒は往々にして受験に失敗してしまうことが多かった。早めに奏に真意を確認しなくては、と思うのだったが、何せつかみ所が無い生徒だ。上手くかわされたり、はぐらかされてしまったりしては意味が無い。高橋は実力試験以来、その時を慎重に見極めていた。

 

「奏—」

光が自分のことを名前で呼ぶときは、大抵良くないことが起こったときか、自分を諫めるときだと奏は知っていた。内心どっちにしろ面倒だなと思いながらも奏は下駄箱前で自分の名前を呼んだ声の持ち主の方を振り返った。

「どした?」

「今日部活休みになってさ、ちょっと付き合ってよ」

歩み寄ってくる光のリズムに合わせて、カバンのキーホルダーがカチャリと鳴る。キーホルダーに目を向けると、気の抜けた顔をした黒猫のキャラクターと目が合った。奏は黒猫を眺めて考えてみたが、光から何か諫められる心当たりは無かったので、光の話に乗ってみることにした。

「光の奢りならいいよ」

いたずらっぽく笑ってみる。

「奏の方がお金持ちじゃん」

光は少しムッとしている。いつもは冗談で返してくる所だが、そんな余裕も無いらしい。今日は長くなりそうだな—奏はふと左手に目をやった。午後4時を回ったぐらい、3時間は時間が取れそうだった。

「どこ行くの?」

「家でいい?」

光からの意外な提案に奏は驚いてしまった。小学校からの付き合いである光の家に上がるのは今まで数えたほどしか無い。しかも高校に上がってからは一度も無い。奏は少し返答に困ってしまったが、

「いいよ」

と答えることにした。

光の家までは2駅分の距離だったが、2人とも自転車通学だったため、自転車で移動することになった。いつも2人で帰るときには自転車を押し、たわいも無い話をしながら帰るのだが、光は何も話そうとせず、黙々と自転車を漕いでいる。奏は不思議と拓巳や光との間に生まれる会話が無いタイミングは苦手でなかった。そして得てしてそういうタイミングでは自身も考え事をしていることが多かった。奏の中では、今回の光の話は部活のことだろうと見当がついていた。なぜならそれは、太陽の光をキラキラと反射させている女子バスケ部のロゴが入ったエナメルバックが目に入ったからではなく、光の表情自体がそれを物語っていたからだ。光の家までの帰路は、基本的に道に慣れている光が前を走る形になっていた。道幅が広くなった際に奏が併走しても光は奏に一瞥もくれず、口を真一文字に結んでひたすらに前を向き、まるで悔しさを押し殺すかのように自転車を漕いでいた。

光の家の前に自転車を駐め、光の母に「久しぶりね」と声をかけられながら奏は数年ぶりの空間に足を踏み入れた。奏は光の家をどこか懐かしく思うのと同時に、この家があの頃より少し小さく、そして遠い存在になっている気がした。まだ17年間しか生きていないが、自分が酷く年をとってしまったような感覚に陥ってしまい、奏は、すこし居心地が悪くなっている事に気がついた。まるで少年が生活しているような光の部屋はあの時のままで、少し安心してしまった自分がいることもそのことに拍車をかけた。

「奏は何で野球やめちゃったの?」

光の部屋に入って、母親から出された麦茶を口に含み、10分は経っただろうか、先に沈黙を破ったのは光だった。

「なんで今更、そんなこと聞くんだよ。中学の時に話しただろ」

奏は予想外の質問だったことに驚くと共に、触れられたくない話題に少し苛立った。

「そうだけど。ひょっとしたら、奏だったらわかるかもしれないって思ったから」

「何のことだよ」

自分でも語気が強くなっているのがわかる。

「今日さ、朝練が急遽ミーティングになったんだよね」

「うん、それで?」

「1年生が通常メニューをこなせるようになったから、今年の総体の目標と登録メンバーの話になったんだけどさ」

「まさか、キャプテンはメンバー外れねぇだろ。ケガはとっくに治ってるんだろ?」

話の腰を折ったり、茶々を入れたりするのは奏の癖だった。光は構わず続ける。

「今年の女バス、3年生多いじゃない?私メンバー選考のことで、もし本当に総体で優勝目指すのなら、1年生を入れるべきだって言ったの。今年の1年、身長あるし、中学の頃県選抜だったメンバーが3人も学力試験で入ってきてくれたんだ」

「そっか。女バスは野球部と違って、推薦枠持ってないもんな。すげぇじゃん」