プロローグ

四月 第一週

 

 まだ肌寒い空気の中、朝陽に照らされた時任奏の横顔は酷く退屈しているように見えた。いや、正しくはそう見せていたのかもしれない。遠くの山々を見つめる切れ長の目は、まだ眠っていたいかの様にいつもの半分ほどしか開いていないし、寝癖のついた少し長めの癖毛も、とても校訓で謳われているような『眉秀でたる若人』とは言い難い。

「おはよう」

少しかすれた声で奏に挨拶をした女子高生は、挨拶をするのと同時に奏の前の席に腰をかけた。鎖骨あたりまで伸びた髪を鬱陶しそうに耳にかけながら振り返り、

「また同じクラスだね—」

これから間髪を入れず投げかけられるであろう言葉達の事を少し鬱陶しく思ったのか、奏は目線を窓に向けたまま

「光、おはよ」

とだけ言った。かすれた声の持ち主はあからさまに不満な顔をしている。

「また、寝不足なの?」

怪訝そうな声を遮るようにして奏は机に突っ伏した。その様子をため息をつきながら横目に見た三ツ村光は、つまらなさそうにスマートフォンを弄り始めた。

「野球部負けちゃったね」

特に奏からの返答を期待していないかのように、光はスマートフォンを弄りながら続ける。

「拓巳はやっぱり凹んでんのかな?」

光は奏をのぞき込むように話しかけるが、奏からの返答は無いままだ。しばらく光は奏の返答を促すように、黙ったまま親指を動かし続けていると

「誰が凹んでるって?」

と、ゆうに一八〇センチは越えているであろう、浅黒く日焼けした大柄の男が会話の中に入ってきた。学校の指定鞄の他に大きなスポーツバック背負ったその男は、奏の横の席に腰掛けるやいなや、

「また、おんなじクラスみたいだな」

と二人に話しかけた。相変わらず奏は机に突っ伏したままだったが、右手をその大柄の男にひらひらとふっていた。光はこの大柄の男の出現に酷く驚いていたようで、口をぱくぱくさせながら、

「拓巳、またおんなじクラス・・・だったんだね」

と視線を合わせないまま、ぽつりぽつりとつぶやいたが、すぐに拓巳の屈託の無い笑い声がその場を包み込んだ。

「ははっ!光って本当に奏の事にしか興味ないんだな!負けたことよりそのことに凹むぜ。下で掲示板見たから、この教室にいるんだろ?奏のすぐそばに俺の名前もあっただろうに。そして俺らが四組以外に行けるとこがあるとでも?」

大きな鞄の中から銀紙に包まれた球体を取り出しながら拓巳が言った、

「だ、だって!今、拓巳に聞かれたらまずいこと話してたから!」

光がすぐに取り繕うとすると、奏は未だに机に突っ伏したまま間髪を入れず、

「いや、それとこれとは関係ないから。そしてまずくも無いから」

と言い放った。拓巳は拳よりも一回り大きい球体の銀紙をはがすと、そこには海苔にまかれたおにぎりが現れた

「お前のそういうとこ、変に鋭いよなぁ」

拓巳はそう言うと、奏の方をチラッと横目で見るとふっと笑い感心するような、曖昧な表情で大きな一口目を頬張った。光は少しうつむいて頬を赤くしていたが、さっと拓巳の方を向き直ると真剣な目をして直球な質問を投げかけた。

「負けて、ショックじゃなかった?」

「負けて悔しくないやつ、いるかよ。そして今まで何回負けてると思ってんだよ」

拓巳はすぐにおどけた顔を見せて三口目を頬張った。既におにぎりは半分以上無くなり、中から大きな唐揚げが顔を覗かせていた。

「朝からよくそんだけ食えんな」

相変わらず突っ伏したままだが、顔だけを拓巳の方に向けて奏は言った。

「元女房役に、甲子園終わって初めての会話がそれとは恐れ入ったね」

拓巳はまた屈託の無い笑顔で、おにぎりを頬張ったまま続ける。

「でもまぁ、個人としては、全国レベルでもある程度通用した。でもチームを勝たせられないと、だめだよなぁ。また夏に借りを返しに行くだけだ」

「なんだ、いつもの拓巳だ。元気そうでよかったよ」

そういうと、光はゆるゆると笑っている。

「そういえば—」

光がそう言いかけると、

「高橋か?」

と奏が遮った。

「高橋、『先生』!奏はすぐそうやって呼び捨てにするんだから!そしてなんで言おうとしてることがわかっちゃうのかなぁ」

光は呆れながらも続ける。

「まさか鬼の高橋がこのクラスの担任になるとはね。このクラスってみんな推薦じゃないと大学行けないような人達が集まるじゃない?大丈夫なのかな」

「高橋は推薦、あんまりくれないらしいもんな」

拓巳がおにぎりを飲み込んだあとに、一息つくようにぽつりとつぶやく。一瞬三人のまわりに、日陰ができたような、どんよりとした空気が流れた。その沈黙を嫌がるように奏が机からむくりと起き上がり、窓に映った寝癖を手で直しながら、

「拓巳。おまえは大丈夫だ」

と、落ち着いた声で、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。一瞬の間があって、

「え?わたしは?」

と光が訝しげな表情を見せている。それに構わず、奏は拓巳の方を向き直りもう一度、

「拓巳は、大丈夫だ。保証する」

と念を押した。拓巳は少し困ったような顔をしながら最後の一口を頬張る前に、

「ありがとう」

とだけつぶやいた。

 

 人口三十万人の小都市であるこの町にとって、三十五年ぶりの甲子園出場は大きなニュースであった。奏たちが通う県立浅葱西高校の秋の大会での成績は、春の甲子園の出場校に選ばれるか微妙なものだった。しかしまさかのサプライズ選出によって出場が決まり、それは町をあげての一大イベントになった。野球部の副キャプテンである磯部拓巳は5番キャッチャーという中心選手としてベスト8進出に大きく貢献した。しかし、自身のパスボールが決勝点となり敗戦してしまったことから、試合終了後に大号泣。某民放の甲子園特集番組で、トピックスとして取り上げられるほどだった。

 

 朝のホームルームが近づき、光と拓巳は本来の席の持ち主達に持ち場を譲り、奏は相変わらず少し雲が垂れ込めてきた窓の外を見つめていた。窓に映る自身の制服の首元には鈍く光る三つ葉をモチーフにした校章と、学年を示すⅢの文字が入ったバッチが着いていた。奏にとってはこのⅢのバッチはどうも居心地が悪く、少し息苦しい物として感じられた。

『受験生としての自覚』県立高校の進路指導及び学年主任らしく、アイロンが効いたスーツと整髪料で整えられたアップバングのヘアスタイルをした高橋は、朝のホームルームだけで三回もこのフレーズを使った。そのたびに明らかに教室の空気がこわばり、萎縮していくのを感じていたが、奏は何故かその言葉が自分の胸の中にストンと落ちず、通りすぎはしないのだが、自分の体のまわりを包み込む、靄のような物に感じていた。

「鬱陶しいな」

奏は高橋の喋るたびにピクピクと動くこめかみをじっと見つめながら、右の列の二つ後ろの席の拓巳には聞こえるが、高橋には聞こえない、ぎりぎりの声量でもってつぶやいた。地獄耳の光は恐らく怪訝そうな顔をしているだろうと奏は感じていたが、三つ右の列に座る光はそれに呼応するように肩を落としながら、大きく息を吐いていた。

 

 そもそもこの四組は公にはされていないものの、学年の中でテストの点数が取れない生徒が集まった、学力底辺クラスである。しかしそれはクラスメイトの大多数が運動部に所属しており、それぞれの部でエースと呼ばれていたりキャプテンを務めていたりすることによる。つまり彼等は勉強より部活動に高校生活を捧げているのだ。しかしながら四組の一部には特に部活動をしていないけれど、本当に成績不振に陥っている生徒がいるのも事実ではある。

 拓巳や女子バスケ部のキャプテンである光は前者であり、奏は前者でも後者でも無かった。高橋は自身もバスケ部の顧問を担当していることもあり、事前に四組の生徒のおおよその顔と名前は一致していた。しかし時任奏は名前を見てもピンとは来なかったし、どんなに考えてもスポーツ推薦で入学してきたわけでもなければ成績不振に悩んでいるわけでもない奏が、なぜ四組にいるのか分からなかった。そういう意味では時任奏は浅葱西高の三年四組において異質の生徒だと高橋は感じていた。

 初日のホームルームが進むにつれて、この違和感は高橋を大きく包み込むようになっていた。ほとんどの生徒は、高橋の話に自身の状況を重ねて不安になったり、新学期に向けて気持ちを新たに頑張ろうとする気持ちが表情から読み取れたりするのだが、奏からはその感情の『揺らぎ』が一切見えなかったのである。

 高橋は浅葱西高ではずっと三年生を担当していたが、学力底辺クラスの四組を受け持つのは初めてだった。進路担当を歴任してきたこともあり、四組の生徒とは大学の推薦入試のことで関わることが多かったのだが、正直、今まで四組の生徒に対してはあまり良い印象を持っていなかった。高橋はどうもこの浅葱西高の、部活動を頑張った者には推薦枠がある、という代々続く風潮が理解出来ない。そしてその風潮の象徴とも言えるこの四組の存在が、いや、部活動を頑張ってさえいれば推薦で大学に行けると思っている連中のことがどうしても好きになれなかったのだ。さらに付け加えると、尚且つ部活動において特に実績を残していない生徒はもう最悪だ。そのため、そのような生徒の部の顧問からも高橋と同じような所見を得られた場合、そういう者達に対して高橋は推薦枠を与えなかった。それが理由で『鬼の高橋』というあだ名をつけられているということを高橋は理解していたし、別にそのことを嫌だとも思っていなかった。言わばそれは高橋の信念のようなものだったからだ。

 しかし、この時任奏という人間はどうだろうか。先ほどの『揺らぎ』は部活動生だけでなく、成績不振者の表情からも読み取れた。しかし奏は相変わらず無表情でこちらを見てくるか、時折視線を窓の外へ投げかけていただけだった。高橋はホームルームが終わって教室から職員室に戻るまでの間、奏に対して実に不思議な感覚を抱いていた。高橋は長年高校三年生と関わってきた経験も、多くの生徒を正しい進路に導いてきた自負もある。それ故に、この四組の中で異質な存在である奏にも、朝のホームルームでの挨拶、つまり言わば先制ジャブのようなスピーチで何か感情に波風をたてられると踏んでいた。しかしジャブは綺麗にかわされたのかなんの手ごたえもない。初めての経験だった。

「さて、どうしたものか」

高橋は中庭を眺めながら珍しく独り言をつぶやいている自分に酷く驚いた。

 

 朝の高橋の話はクラスメイト達に大きな影響を与えたようで、始業式が始まる前の休憩時にはクラス中が進路や高橋の話題で持ちきりになった。拓巳や光も奏の机のまわりに集まってはしきりにその話をしていたが、奏には良くその気持ちがわからなかった。

「鬱陶しいとか、聞こえるように言うなよな」

「本当だよ、聞こえてたら、ブチ切れられてるからね?」

「俺も、拓巳も、光もみんな大丈夫だって。何とかなるよ」

別に慰めるつもりでも、気を遣うわけでも無く、ごく自然に奏はそう言ったが、2人からは口々に、

「はいはい、勉強できる奏選手は違うわね」

「うわーお前、このタイミングでそれ言うかね」

とあまり相手にされなかった。しかし、奏にとって将来や未来というものは、強がりでも無く不確かで、あやふやで、実際に訪れてみないと解らない、まだ行ったことが無い場所—しかしそこは決して危険な場所ではないのではないか、