プロローグ

四月 第三週

進学校である浅葱西高のスポーツ推薦枠は非常に狭く、ある一定の水準で結果を残している部活動にしか割り振られず、女子バスケ部にはその枠が無いのだ。光から女子バスケ部の内情を聞かされている奏にとってみると、光の判断は至極まっとうなものだと思えた。
「でも、そしたらさ、3年生からミーティング終わった後に更衣室で『ウチらのこと裏切るんだ』って言われちゃってさ。なんか馬鹿らしくなっちゃった」
「何のためにバスケやってんだよ」
奏は思わず光がどう思うかを考えずに、自分の思ったことを口走ってしまった。
「そう。実際そうなんだよ。楽しく3年間の思い出として、部活をやってきた子にとっては、私は邪魔者かもしれないんだけど、私は勝ちたいんだよ」
そういう光の肩は震えていたし、目にはうっすらと涙が浮かんでいたのかもしれなかったが、奏からは西日の逆光でよく見えなかった。
「結局ミーティングはどうやって終わったんだ?」
「監督も居たから、チームとしては、優勝を目指すっていう形には収まったんだけど、内部はスッキリしないよね。一応、監督はキャプテンの私の意見も反映した上で最終的にメンバーを決めるって言ってくれたんだけど」
光のポジションはガードだが、正直決定力が足りない。浅葱西女子バスケ部は、ディフェンスには定評があるチームなのだが、強豪相手に競り合ったとき、得点力の差で苦汁をなめることが多かった。チームが強くなるためには、爆発力があるシューティングガードやスモールフォワードの台頭と獲得が急務であった。それは本気で優勝を目指す光にとっては願ったり叶ったりであるはずだった。正直奏はこの問題を、所謂『女子的な問題』だと感じていた。このようなことは勝利至上主義の強豪男子部には存在しない考えであろうし、少なくとも奏が属してきたチームには存在しない問題だった。しかし、女子だと人付き合いや様々な目に見えない問題があるのだろうと、奏でも肌で感じていた。そこで、最初の質問に戻るのである。
「だから、奏が野球やめちゃったのは、こんなチーム内のゴタゴタが原因だったのかなって」
「そんなわけ無いだろ」
遮るように奏は言い切った。そんなわけが無い。他人がどうだとか、他人からどう思われるだとか、そんなことは微塵も関係ない。あくまで自分のことは自分で決めてきた。
「やりきったんだよ。限界だったんだよ」
「じゃあなんで拓巳は続けてるの?奏だって拓巳ぐらい野球、上手だったでしょ」
「俺の試合見たことあるのかよ。自分の部活で忙しかったから最後の大会ぐらいしか、見てなかっただろ」
「そう、だけど。でもどの試合も活躍してた。間違いなくあのチームは奏と拓巳のチームだったよ。高校でも続けようと思えば、続けられたでしょ」
「向いてなかったんだよ。その文句垂れてた控えの3年と一緒だよ」
そう言って奏が立ち上がろうとしたとき、光が強く奏の腕を掴んだ。
「奏。自分が思っても無いようなこと、口にするもんじゃ無いよ」
その声と腕には奏が想像するよりも力が込められていた。立ち上がりかけていた奏がもう一度腰を下ろす。
「結局、光はどうしたいんだ」
「勝ちたい。優勝したい」
「じゃあ答えは出てるじゃないか」
「でも、萌達も頑張ってないわけじゃないし、チャンスはまだあるわけだし・・・」
「キャプテンになっても優柔不断は変わらないのな」
思い詰める光を少しからかうつもりで茶化してみたが、光の反応はつれないものだった
「ただ、私は3年生の控え組と1年生が競い合って、自然とメンバーが決まれば良いと思っただけなのに」
光が言うことは尤もである。しかし、ただ3年間部活をやっておけばいいと考えている人間にとってみれば、3年間続けた最後の大会でメンバーから漏れてしまうことは、楽しい高校部活の思い出の最後の最後にケチがついてしまうような気がして、なかなか認められないのであろう。確かに難しい問題だった。しかしながら、考えているだけでは、先に進まない。
「そのことを、ありのまま伝えたら良いんじゃないか。部活を、バスケをやるモチベーションなんて人それぞれなんだから。全員が揃ってるっていうほうが、気持ち悪いぜ。でも、本当に勝ちたいと思っているんなら、気持ちは揃って無くとも、同じ方向は向けるんじゃないか?」
奏は思いきって自分自身が野球をやっていた頃から思っていたことをそのままぶつけてみた。
「でもその『勝ちたい』が、そもそも揃ってない気がするの。なんて言うか、『勝てたら良いな』みたいな」
それじゃあ、やる前から結果は見えている。奏はその言葉を飲み込んだ。今の状況は光にとってあまりにも不憫だ。それを今この場所で突きつけることの意味は、果たしてあるのだろうか。それこそ光のモチベーションを控えの3年生と同等かそれ以下までたたき落としてしまう危険性だってある。
「時間が解決してくれるよ。その間、光は背中でチームを引っ張っていけば良いんだ。きっと大丈夫だ—」
そう言った奏の声色は非常に落ち着いたものだった。光はそれで不安が消えたわけでは無かったが、奏の言葉に少なからず救われたのは事実だった。
「ありがとう」
光は西日で照らされた奏の長い睫毛の先にミニバスケット時代に獲得したトロフィーを確認し、努めて明るく礼を述べた。礼なんて要らないと言いたげな奏の表情には、まだ小学生の頃の面影が残っているように感じられた。
 
 4月も下旬になり、ようやく学校全体が新しい日常になれてきた頃、拓巳の周辺は未だ慌ただしかった。副キャプテンでもある拓巳は、新1年生のこと、チームのこと、自身の進路のことに、常に頭を働かせていた。拓巳はもともと器用なタイプではなかったため、考えるよりも先に行動するタイプで、同時にタスクをこなしていくのは至難の業だった。特にセンバツ8強入りしてからは取材を受けることも多くなり、何処か地に足が着かないというか、ふわふわした感覚が、何時も頭の片隅にあった。集中出来なかったり身が入らなかったりするのでは無い。気持ちは入っているはずだし、全力で取り組んでいるはずなのだが、どうしたことか、上手くいかないのだ。ゴールデンウィークには強豪校との練習試合が多く組まれた遠征も控えている状況で、今日は悪天候により練習が中止となり、拓巳は数ヶ月ぶりに奏の家に居た。
「急に押しかけてきたと思ったら、いきなりゲームかよ」
奏はもはや呆れながらコントローラーを握っている。
「たまには大親友のお悩み相談にでも乗ってくれよ」
拓巳は画面上で左折しているF1カーと同じ向きに体を倒しながら、画面を食い入るように見つめている。
「誰が大親友だよ」
「光の相談には乗ったんだろ?」
奏はしてやられた、と思った。
「まったく、あいつはお前には何でも話すんだな」
「お互い様だろ」
今度は逆向きに体を倒しながら拓巳は言った。
「光とお前の状況は違うだろ、どうしたんだよ」
「いや、最近なんかあんま上手くいかねぇんだよな、色々と」
「甲子園ベスト8。打率4割越え。テレビで特集が組まれ、下級生からはキャーキャー言われる。これのどこが上手くいってないんだ?天才キャッチャー君」
「お前は何でもそつなくこなせるから、わかんないだろうけど、全力でやっても自分の描いた半分も上手くいかないことが続くと、人間凹むもんなんだよ」
ピットインしている奏を抜き去りつつ拓巳は続ける
「なんか背負うものが多すぎてキャパオーバーって感じだな」
「天才キャッチャー君は不器用だからなー」
「んなこたぁ自分でわかってんだよ。でも今なんとかしねぇといけねぇんだよ」
奏から抜き返されたのが悔しいのか拓巳の語気が荒くなる。
「光よりはマシじゃねぇか。お前の場合はまだ自分で何とか出来る」
「だから、厄介なんだよ」
ポーズボタンを押し、一旦テレビ画面から奏の方に向き直った拓巳の目は真剣そのものだった。
「もっと上手く出来る、いや、やらなくちゃって思えば思うほど、上手く出来ない。そしてそれは自分のせいだって事もわかってる。でも何故かわからないけど、力の半分も出てない気がするんだ。こんなの初めてだ」
拓巳はコントローラーを握っていた掌を見つめながらつぶやいた。
「わかんねぇけど、野球やってんだから、何でも一人で背負い込まなくてもいいんじゃないか?」
「野球は、な」
拓巳は舌を出しながら戯けて見せた。
「でもお前に話して少しだけスッキリしたよ。ありがとな」
「女子かよ。気持ち悪い」
そうして二人はまたF1カーに乗り込んだ。窓の外の雨はまだ止みそうに無かったが、奏はこの空間が、この関係が、ずっと続くものだと疑わなかった。この3人はつかず離れずの距離で、たまに寄り添い、たまにフラフラと揺れては、また寄り添うような、そんな3人であり続けるはずだと思っていた。時間には限りがあり、そしてこの1年間は3人にとって大きな岐路となることなど、露知らず、『大丈夫』だと思っていた。将来や未来というものは、不確かで、あやふやで、実際に訪れてみないと解らない、まだ行ったことが無い場所だというのに。