チャンス

十月 第二週

「女子バスケ部のキャプテンの立場だといろいろ勝手が違ってくるのよ」
光はとりあえずお茶を濁しておくことにした。
「でもお前が朝練してることは、女バスの部員達は絶対薄々気づいてるだろ?」
拓巳はまだ食い下がってくる。
「それは私が一、二年の時もそうだったの!でもそれが伝統なのよ!別に良い伝統でも悪い伝統でもないと思うけど、私はこのままでいいと思ってるんだから、ほっといてよ!」
気付くと自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
「ふーん。じゃあそんなもんなのか」
奏の返事は想像していたものとは大きく異なっていた。普段の奏であれば非難が最初に来そうな気がしたため、軽く肩すかしを食らったような気分になった。
「めんどくさい伝統だなぁ」
拓巳は明らかに納得がいっていない様子だった。
「まぁ、光がそれで後悔がないっていうのなら、いいんじゃないか?」
最近、以前に比べて奏のこういう部分が柔らかくなったように感じる。そのことを光は少し、いいな、と感じていた。
「それもそうか」
拓巳も何かを察したのか、それとも何かストンと腑に落ちるものがあったのかはわからないが妙にすんなり矛を収めた。そう、これだ。これが三人で今まで生まれ育ってきた中で育まれてきた『呼吸』のようなものだ。この居心地が良すぎるのだ。光は妙に納得してしまった。恐らく、最近感じる『引っかかり』は、この居心地の良さを手放してしまうことへの躊躇いや不安から来るものなのだ。
「拓巳と奏はさ」
名前を呼ぶと、見慣れた二つの顔がこちらを振り向く。こちらに向けられるその目は、家族や友達のものとは全く違う。純粋無垢で敵意や何の意図もない真っ直ぐなものだ。最近二人の顔つきが少年のそれではなく、着実に大人に近づいていることを肌身で感じることが多い。母が文化祭の時に「奏君と拓巳君はまた一段と男前になったわね」というのも頷ける。そんなことを考えていると、口の方が留守になってしまったらしい。二人の目が「どうした?」と問いたがっている。
「あぁ、ごめん。考え事しながら話してたから変な間が空いちゃったね。拓巳と奏は、卒業した後のこととか不安になったりはする?」
ふっと二人の顔が緩むのがわかる。
「何だよ。深刻そうな顔してるから、何のことかと思ったぜ」
先に話し始めたのは拓巳だった。
「東京に行くことに急に不安にでもなったのか?」
からかうように悪戯っぽく奏が乗っかってくる。
「うん。正直、結構不安。いろいろやってけるのか?ってね」
「そんなこと考えるよりもまずは、セレクションのことが大切じゃないか?」
拓巳は腕組みをしながら、問いかけてくる。
「ううん。そのことがあって、なかなか集中出来てないのかもしれないって思うの」
「そうか。卒業した後、ね。正直、そんなに真剣に考えたことはないかもな。どちらかって言うと、どうすればもっと野球を続けていけるか、だけを考え続けてる気がするな」
拓巳の言葉には、説得力とそれを裏付けるような自信が透けて見えた。
奏が補足するように重い口を開いて続ける。
「野球なんて、続けようと思えば、いくらでも続けられると思ってるかもしれないけど、案外そうじゃないんだぜ。高校卒業したら社会人か大学か独立リーグかプロ野球、本気で続けるのならこれぐらいの選択肢なんだ」
「野球を続けるためには、認められるしかない。その為には練習するしかない、そう思った三年間だったし、今もそう思って練習してる。光は違うのか?」
拓巳の真っ直ぐな言葉には、たまに胸の奥をグッと捕まれたような気分になる。
「私は、どちらかというと完全燃焼したい。自分の限界を見てみたいし、知りたい。野球と違ってフィジカルコンタクトがあるスポーツだから、身長があんまりない私でも『ここまでやれるんだ』っていうのを示したいんだ。だから明翔に行って自分を試したいの。でも、仮に受かったとして、本当に自分に出来るか、自信なくなっちゃって」
「そんなのやってみないとわかんないよ」
奏はゆるゆると笑っていた。その顔を見て安心している自分に気付く。奏の言葉には以前までの楽天的でどうにかなるさ、のようなニュアンスが薄れていた。泰然自若とも違いどこか悟ったような、ともすれば諦めているような気持ちさえ感じ取れた。
「奏は、不安、ないの?志望校だってまだ決まってないじゃない。来年から自分がどこで何してるかさえ決まってない状況なのよ?」
奏は困ったように笑った。
「うーん。正直、わかんない。周りの人間がどんどん『自分はこの道に進んでいく』って、胸張って堂々と歩いていくように見えて、正直焦る。『やりたいこと』っつってもよくわかんないしな。ただ、一生懸命には生きてみたいと思ってる。そんな感じかな」
「私はバスケ、拓巳は野球っていうわかりやすいものがあるからかもしれないけど、奏の場合はまだ見つかってないだけなんじゃない?」
「まぁだから、大学に行って・・・って考えだったんだけど。何ていうか上手く言えないんだけど周りの奴らの熱にあてられててな」
「そんなこと言ったって、今まで俺らと居てもそんなことなかっただろ?」
拓巳は訝しげな表情をしている。
「いや、違うんだ。何ていうかお前らは昔から一緒に居るから、特別な存在なんだ。他の人とは違うというか、お前らだから特別に頑張れてるっていうか、難しいな。でも、最近真田とかを見てても思うんだけどそれがどうもお前らだけじゃないっていうか、伝わるかな?その中にはもちろん加奈ちゃんとかも含まれてて・・・」
奏は不器用ながら今の思いの丈を吐き出していた。光にも奏の言わんとすることは何となくわかる気がした。高校生活の最後の一年—それぞれが放つ光は蛍のように小さいながらも、力強く瞬いていた。
「奏の言いたいこと、何となくわかるよ。バスケ部のチームメイト達にだって総体前の練習だったり、最近の勉強してる姿だったりを見てて同じこと思ったことある」
拓巳は未だに難しい顔をしながら腕組みをしたままだ。
「だから、光が感じてる不安もわからなくはないんだよな。でも、実際やってみなきゃわかんないんだよ。なるようになるさ」
「その点に関しては俺も同感だな」
拓巳は奏に同調することで重い口を開いた。
「俺も不安はあるさ。怪我をしたら、木製バットに対応できなかったら、レベルについて行けなかったら、考え出したらキリがないよ。ただ、それを忘れられる、払拭できる、唯一の方法が練習することだって信じてるから、とにかく練習するんだ」
拓巳のその言葉に、光は月日の流れを感じた。昔の拓巳はあまり練習が好きではなかった。特に基礎の反復や体力作りのような地味な練習をとことん嫌うイメージがあったが、今の拓巳からはそれを微塵も感じない。自分を律してここまでやってきた精神的な強さと、その裏にある不安や葛藤の大きさを覗かせるエピソードだった。
「やっぱり拓巳は強いなぁ。少し憧れるよ」
光は素直にそう言ったが、拓巳は少し照れているようだった。
「かっこつけてんじゃねぇよ。素振り今でも嫌いだろ?」
奏は拓巳に茶化すように口では言ってはいたが、内心、同じことを思っていたに違いない。光には奏の照れ隠しの際に出る癖がよくわかっていた。久しぶりに三人で何も包み隠さずに話をしたような気がする。拓巳も奏ももがきながら、確実に一歩一歩、自分が進むべき道を見つけ、歩き出しているように感じた。
「なんか、聞いてくれてありがとう。セレクション、やれそうな気がするわ」
気がつくと、そう、口にしていた。子供の頃のように笑う二人の顔があった。
「がんばれよ」
タイミングを見計らったわけではないが、奏の少し高く澄んだ声と拓巳の低い声が重なった。

 
 東京に向かう新幹線は、何回乗っても慣れないもので、在来線よりも少し固いシートが居心地の悪さを演出していた。母からは「車で送っていこうか」や「一緒に行こうか」などと提案されたが、光は自らその申し出を断っていた。小学生の頃から仕事を休んでまで試合には欠かさず来てくれていた母の申し出を断るのには少し胸が痛んだが、今日だけはいつもと同じ環境でやってはいけないのだと本能が叫んでいた。過去の自分や弱い自分と決別した先にセレクションの合格があるのだと、そう感じていた。いつもならば慣れないながらも、固いシートに身を預け東京までの間仮眠を取るのが常なのだが、光は「今日は少しでも自分の全力を出せる環境作りに充てた方が良い」と拓巳からアドバイスをもらっていた。「寝違えたら?」「寝ることで体が重くなったら?」と問いかけてくる拓巳の顔を想像すると少しイラッともしたので、新幹線の中ではとにかく良いイメージを持ってセレクションに臨めるよう努めることにした。