チャンス

十月 第一週

チャンス

 
 日が暮れるのが早くなり、制服の隙間から肌寒い空気が差し込んでくることが多くなった。この制服にもあと半年も経たないうちに別れを告げるのかと思うと、世間でJKと呼ばれるブランド力が自分から失われるような気がして少し寂しさもある。午前六時ー部員がまだ誰も来ていないこの体育館を三周走り、ストレッチをする。バスケットボールが入ったカゴを部室から出す。今日も綺麗に磨かれたバスケットボールは移り変わる季節を映すように、触れる手の平にその冷たさを伝えてきた。コートも今日はまるでスケートリンクのようだ。ゴールから斜め四十五度、六メートル七十五センチ先から一球一球ボールの感触を確かめながら、シュートフォームを確認して、ボールを放つ。皮と糸が擦れる音がした少し後に、ドンと大きな音が着地した足に振動と共に伝わる。進路のことや、それにまつわる様々な感情、その他の雑多な情報、それらを忘れられる唯一の瞬間だった。一カゴ分のシュートを打ち終わると、ボールを拾い、また違う角度から同じことを繰り返す。奏からは、昔、これの何が楽しいのかと問われたことがあったが、光にとって、もはや呼吸のようなものになったこのルーティンはそのような次元のものではなかった。一通りシュートを打ち終わった後、光はひとつ大きく息を吐いた。白い息が舞い上がることを期待したのだが、それにはまだ少し早かったようだ。時計を見やると六時四十五分。もうすぐ女子バスケ部及び男子バスケ部の朝練が始まる。光は素早くモップをかけ、橋本から内緒で預かっている体育館の鍵をかけ、汗をシャワーで流すために家路につくのであった。
 指定校推薦の話が決まってからというもの、文化祭は別としても、どこか張り合いのない日々が続いている。シャワーで髪を洗い流しながら、そんなことを考える日々が多くなるようになった。確かに、自身が望んだことであることに間違いはないし、高橋もかなり尽力してくれたに違いない。しかし、何か、何かが強烈に「引っかかる」のだ。その何かが分からないことにも多少の苛立ちが募っていた。
「おはよー。光は今日も朝練か?」
「あ、おはよ。アンタは今日も寝不足みたいね」
「うるせー。バイトの夜勤入れられちまって大変なんだよ」
「夜勤?まだ高校生でしょ?なんで夜勤なんてしてんの?」
「昼間のエースだったバイトが今月で辞めるんだよ。それで夜勤のスタッフが昼間のシフトを埋めることになったから、代わりに俺が夜勤のシフトに入ってんの。まぁ夜勤のスタッフが入るまでの繋ぎだよ」
奏は会話の途中に欠伸をしては、眠そうに目を擦りながらそう言った。
「でも、受験勉強は?っていうか志望校すらまともに決まってないでしょ?」
奏の瞳に一瞬火が灯りかけて、すぐに消えた。
「うーん。なんとかなるんじゃね?大学も選り好みしなければそれなりの所には行けるし。それより、指定校推薦様はやっぱり余裕が違うよなー。他人の心配まで出来るんだから」
「うわ、でた。アンタまでそんな事言うわけ?バスケ部の連中だけでお腹いっぱいなんだけど。それにセレクション受からなかったら、どちらにせよ行かないんだから」
指定校推薦の話が決まってからというもの、この手のからかいや半分嫉みが入った言葉を受け取るのには慣れていたが、やはり少し心がチクリと痛む。
「今週末だっけか?セレクション」
「そう…ね」
自分でも声のトーンが一つ下がったのを感じる。左腕を枕のようにして机に突っ伏していた奏も思わずムクリと身を起こした。
「どうしたんだ?どこか痛むのか?」
あまりにも奏が慌てて、顔まで覗き込んでくるものだから、思わず吹き出しそうになる。
「そりゃ、不安もあるでしょう?だって私一回も全国に進んだ事すらないんだよ?周りはみんな超高校級なんだからそりゃ不安にもなるわよ」
「なんか、光らしくないな」
奏は困ったような表情を見せている。
「いつもはチームのみんながいるから強気でいれる時もあるけど、今度は一人だからね。それに他のプレイヤーは総体明けでウインターカップ予選の前でしょ?仕上がりも雲泥の差よ」
「確かに拓巳も似たような事言ってたな」
「なんて?」
「やっぱり実戦から離れてたのもあって、球の見え方とか体の力み方とか全然違うって。それと甲子園に出た組はやっぱまだ『現役感』あるっては言ってたかな」
「ほら、拓巳のレベルでそれなのよ?私なんて全国に行ったことすらないんだから」
「だからって毎日朝練してるぐらいだから、おめおめと引き下がるつもりもないんだろ?」
「当たり前じゃない!闘う前から敗北宣言するヤツがどこに居るのよ」
奏は困ったように笑っていた。
「じゃあ、部活の時に一緒に練習させて貰えば良いだろ?」
「それはそれ、これはこれよ。新チームになってやっと軌道に乗り始めた後輩たちに変な気使わせて、調子崩される方が嫌なの」
光はため息をついて肩をすくめた。
「でも拓巳もセレクションの前っていうか、夏休みから新チームに混ざって練習してたぞ?」
「あれは、新チームっていうか藤村君から求められてたからでしょ?今でも藤村君の球受けてるらしいし」
「なんで光がそこまで知ってるんだよ?」
奏が怪訝そうな顔でこちらを見てくるのがわかる。
「唐澤君が言ってたもの」
光はわざとツンと冷たくそう言い放ってみることにした。
「唐澤って、なんでだよ?」
こちらの意のままに奏が反応するのが面白くなってきたが、ここはグッと我慢する。
「同じ学校の同じ学年の男の子と連絡先を交換するのがそんなに珍しい?」
「いや、そうじゃないけど…」
奏は何か言いたそうにしているが、もごもごと口を動かすだけでなかなか核心に迫って来ない。
「俺が、光が悩んでる時に唐澤の連絡先を教えたんだよ」
拓巳登場ー。一番面白いところで幼なじみのヒーロー見参、というところだろうか。未だに野球の道具が入って重そうなバッグを背負い、拓巳が登校してきた。奏の「救われた」という顔が鼻にはつくが、話のタネが明かされてしまった後では仕方がない。
「そういうこと。だから、その声がかかってない私が自分の考えだけでチームの練習に参加するのは違う気がするのよ」
「んー。それは俺も違う気がするぞ?」
拓巳も奏の意見に同調してきた。こういう時の拓巳は実に面倒くさい。目一杯の正論をぶつけてくるからだ。
「逆にそういうお前に気を使ってるんじゃないか?」
確かにその嫌いはある。ただ、ここで自分が後輩に甘えて新チームに交じって練習してしまっては、後輩達のために独りで練習をしてセレクションに臨んできた先輩達を否定してしまうことになる。また、後輩にも先輩に頼らずに自立した新チームを作る、といういわば『後輩としての美徳』がある事も知っている。それを今目の前の二人に説明しても時間の無駄とまでは言わないが、結果としてあまり有意義なものにはならないだろう。それぐらい男子と女子の部活へのスタンスは違うということを光は知っていた。