チャンス

十月 第三週

 その中で、両親に大きく感謝したいことがあった。三ツ村家に伝わる『光好プレー集』だ。仕事が忙しく、公式戦以外をなかなか見ることが出来ない父のために毎回母がビデオを回しながら応援してくれていたのだが、いつしか父はそれを見るだけでは飽き足らず、プレー毎に余分な部分を省き、光のプレーだけを集めた光のプレー集を編集することが趣味になっていた。もともとバスケ経験者の父らしく、その着眼点には素晴らしいものがあり、パス集やドリブル集、シュート集のようにプレー毎にわけられたものがどんどんストックされていった。最近ではBリーグのテレビ中継のように、父親自作のピリオドと時間そして得点を示す四角いバナーが画面の左上に表示されるほどの力の入れようだった。光は娘としてそのことを恥ずかしいと思っていた時期もあったが、今となっては本当に感謝しかないと感じていた。今日に向けて父に「とびきりの好プレー集を」とオーダーしていた光は、前日にその動画をスマホに取り込んでいた。新幹線に乗り込んで、最初の駅に着く頃、母に作ってもらったサンドウィッチを食べた後、その動画を見ることにした。
 小学生の頃の自分の姿がスマホの液晶越しに映し出される。まだ母親のビデオを撮る技術も今のように上手くはない。時々大きくぶれ、見失い、我が子が活躍すると映像そっちのけで手
を叩いて応援するため、肝心のプレーが途切れていたりしたが、そこにはぶかぶかのユニフォームを着て果敢に上級生にドリブルをしかけていく自分の姿があった。まだ左手のハンドリングが弱く、フェイントの種類も少なかったが、重心の低い切り込みは効果が大きいようだった。このドライブこそが光の一番の武器だった。気付けば小学6年生、初めて地区選抜に選ばれた頃の試合まで動画は進んでいた。あまり思い出したくない地区対抗戦のものだった。初めてプレーする選手に囲まれた光は、上手く連携が取れず孤立してしまっていた。パスも効果的なものがなく、ただ出しているだけになってしまっている。「とびきりの好プレー集を」と父にオーダーしたはずなのにこの試合の映像が入っているという部分に、父親からのメッセージを感じた。「わかったよ。パパ」光は心の中でそう呟いた。この試合、隣町の選手が途中から出場したことで光のプレーは大きく変わる。その選手がどう動きたいか、を考えるようになってからというもの、本来の光「らしさ」がプレーの随所に出始めたのだ。普段からチームメイトとコミュニケーションを多く取り、相互理解を元にプレーしていく光にとっては、今日のセレクションのように初めてのメンバーと一緒にプレーすることはあまり得意なことではなかった。その中で、誰が自分と合うのかを素早く判断し良いプレーに繋げることが出来るかどうかが、光にとって重要な要素であった。実は、奏や拓巳にも言っていなかったが、これが浅葱西高の後輩達と一緒に練習をしなかった理由でもあった。今日はいつもあうんの呼吸でついてくるチームメイトは居ない。出来るだけまっさらなイメージで臨みたかったのだ。
 中学校の頃になると、体格差で圧倒されることが多くなる。中学校の頃のチームメイトは身長があまり高くなく、光は身長の高い部類にいたため、本来のポジションより身長が求められるポジションでの起用が多くなっていた。そのことが今の光の「強さ」に繋がっている面もあるのだが、この頃のバスケは辛さの方が大きかったように感じる。フィジカルの勝負では勝てないため、とにかくシュートを練習した。中学の頃の映像ではシュートの場面が多くなる。確かに良いプレーなのかもしれないが、「もっとこうすれば良いのに」ともどかしく感じる映像が多かった。チームを引っ張らなくてはいけないという気持ちが強く、独りよがりなプレーが多かったのだ。ただ、こう感じることが出来るようになったのも成長した証だ。今日のセレクションだってそうだ。明らかに良い選手が集まってくることは間違いない。確かに良い印象は残さないといけないのだが、自分の持ち味は自分が一番よく理解しているはずだ。今できる最善のプレーを選び、実行して合格に届かないのであれば仕方がない。
 ユニフォームが浅葱西のものに変わる。表情が今までのものとがらりと変わったことに気付く。バスケの本当の楽しさに気付いたのは高校生になってからだった。たまに奏にはおかしいと言われることもあるのだが、高校生になって、チームが一丸となったときに「1+1が2以上になる」感覚というものを初めて経験してからというもの、光はチームプレーの虜になった。周りを活かし、周りに活かされるバスケ。これこそが自分の追い求めていたバスケだと感じるようになってから、大学バスケでは明翔大の試合を追いかけるようになった。明翔大のバスケはまさに、自分が理想として追い求めるものだった。ドライブで切り込み、相手がそれを警戒すると遠目からでもシュートを打つ、ノールックでパスを出す、と今の自分のスタイルを完成させたのは高校に入ってからだ。一年、二年、と年を追うごとに映像の中の自分のプレーの質や精度は上がっていたが、三年生の頃の映像は別格だった。まだ引退してから日が浅いことと、負けたことを強く意識しなければいけないため、あえて映像は見ていなかったのだが、気迫や熱量キャプテンシーなどを他のチームメイトと比べると浮いてすら見えた。唐澤を参考にして描いたリーダー像を体現できていた喜びがこみ上げてきた。しかし、それと同時に「それでも届かなかった全国」の壁を改めて思い知らされるキッカケにもなってしまった。
 

 セレクションに来る選手のほとんどが全国区ー実際、光が雑誌上や映像でも名前を知っている選手のエントリーがあったのは事実だった。数ヶ月前の自分で通用しなかった選手が相手であり、さらにその選手達はここ数ヶ月の間、全国レベルで凌ぎを削ってきた猛者達だ。「本当にやれるのだろうか?」不安が胸をよぎる。刹那、よく見る締まりのない顔が浮かんだ。『そんなのやってみないとわかんないよ』奏はそう言った。確かにそうだった。実際にボールを挟んで対峙してみないことには分からないことは沢山ある。相手のプレッシャー、コートの匂い、試合の温度、実力差ー。「聞いていた噂よりは全然だな」と思う相手も居れば、逆にノーマークの選手でも全国レベルの選手と引けをとらない実力を持っている選手も居た。勝負は時の運、橋本の口癖でもあった。
ー「アンタらしく、泥臭くいきなさいよ」
昨日の朝練のために光が体育館に向かうと、薄暗い朝方の風景の中、既に体育館の明かりは煌々と灯っていた。恐る恐る鉄の引き戸のドアを開けると、橋本がいつも光が使う側のコートを丁寧にモップがけしていた。
「先生…?」
「遅い!明日セレクションでしょ?何やってんの!」
言葉とは裏腹に橋本はどこか嬉しそうに見えた。
「あの、先生、よく意味がわからないんですけど…」
「ボール出し、私じゃ不満ってわけ?」
橋本は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「い、いえ!そうではなくて…なんでですか?」
「そりゃ、アンタ、確かに体育館の鍵は渡したけど、私にも部員にもコソコソ隠れて練習して、おまけに一回家に帰って朝シャンまでキメて登校してくるやつなんて、こっちも気ぃ使ってばっかで疲れるっつーの」
そう言いながら早くやろうと言わんばかりに、橋本はボールをついている。
「いえ、先生もご存知だとは思いますが、西校の伝統というか…いろいろありまして…」
「あーもー。アンタも代々のキャプテン達もゴチャゴチャうるさいわね。そんなんだから今年のキャプテンは西校らしくないって言われてるけどさくらなのよ」
「確かに、さくらなら普通に翌日からでもコートにいそうですよね」
「でしょ?しかもレギュラー組の方に入ってさ。だからさくらをキャプテンにしたんだよ」
いきなりの橋本の登場には面食らったが、本当に嬉しかったのを覚えている。一緒に練習しながら話した他愛のない会話達のほとんどは、本当に取り留めがないものでほとんど忘れてしまったが、ドライブシュートの練習をしている際に橋本から放たれた、「アンタらしく、泥臭くいきなさいよ」というフレーズは何故か昨日からずっと頭の中に残っていた。自分では映像を見た感想を含め、自分のプレーを泥臭いと思ったことは無かった。しかし、まだ二十代とはいっても現役を退いてなお自分と互角かそれ以上で渡り合う橋本の目は確かなものだと信じてもいる。果たして、自分の何を泥臭いと言っているのだろうか。そんなことを考えていると、新幹線は東京に着いたようだった。
 セレクション会場に着くと、明翔大の設備の良さがまず目についた。体育館はとにかく綺麗で新しい。大袈裟かもしれないが、すぐにでもBリーグの試合が開催できるレベルだった。会場にセレクション開始の一時間半前に到着した光は、セレクション関係者の了承を得てウォーミングアップをすることにした。広い体育館に、自分の一挙手一投足により発生した音だけが響く。今までに味わったことのない、感覚と感動を覚えた。この環境が四年間自分のものになると考えるとそれは何物にも替えがたいものなのかもしれない、とさえ感じた。一球のみ渡されたボールも試合球かと思えるほど綺麗な状態が保たれており、明翔大が名門たる所以を見せつけられたような気になった。いつも通り、リングの斜め四十五度からシュートを放つ。パサッとボールとゴールの糸が擦れる音がした後、ドーンとボールが床に打ちつけられる音がした。いつもと同じはずの光景に鳥肌が立った。光は暫くいつものルーティンを続けていると、不意に後ろから声をかけられた。
「アンタ、いいシュート打つね」
片膝をついてバスケットシューズの靴紐を結ぶ少女は前髪を折り返すようにヘアピンで止めており、額が大きく露出していた。彼女も自分と同じ高校三年生のはずだが、その姿は少女と呼んだ方がしっくり来た。
「私はみんなからピンって呼ばれてる。このヘアピンからきてるんだけど。アンタも今日のセレクション受けるんだよね?」
自分より身長は小さく、中学生とも見える容姿の少女は靴紐を結ぶや否やズンズンとこちらの方へ近づいてくる。
「あ、あぁ。そうですけど…」
あまりの押しの強さに光が押されていると、ピンと名乗る少女は光の手からボールを奪い取ってしまった。
「アンタ、動きはキビキビしてるくせに、なんかトロいのね。名前ぐらい教えなさいよ」
ボールを突きながら準備運動のようなものをしている少女の背中に向かって光は答える。
「ピンってコートネーム?それなら私は抜けてるとこがあるらしくて昔からあんぽんたんって言われててそこからとってポンだね」
するとピンはさっと後ろを振り返り、満面の笑みになった。
「え!?嘘でしょ?ピンとポン?卓球かよ!なんか、アンタといいコンビ組めそうだわ」
ピンの笑顔は本当に中学生のようで、光はまるで自分に懐いている後輩のような親近感を覚えていた。ピンは妙に人との間合いを詰めるのに長けている人物だった。