花火

八月 第四週

「あぁ。サイン、無視してやろうかと思うぐらいにはな」
「そういうときの拓巳って大概打つんだよ」
奏は千絵に説明するように言った。
「でも、やっぱりそうだったんだ。拓巳があの打席、下唇を噛んでるのが見えたから、どうし
たのかなって思ってたんだよね」
奏は、その言葉を聞いたときハッとした。スタンドから試合を観戦していた加奈は恐らく、奏
と同じか、それ以上遠くで拓巳を見ていたはずだった。しかしながら、奏が気付いていなかっ
た拓巳の表情や仕草を加奈が見抜いていた。その事実が『拓巳のことなら何でも知っている』
と思っていた自分の自負を大きく揺るがそうとしていたのだ。
「加奈には敵わなねぇな。でも、あそこで任せられる実力と、信頼を勝ち得てなかった俺が悪
いんだよ。監督さんが勝ちに行った結果だ。悔いはねぇよ」
拓巳の表情からは、悔しさや後悔の念は確かに感じられなかった。先ほどの拓巳が千絵に言っ
た言葉が頭の中でリフレインする。今まで、『当たり前』に拓巳の事を何でも知っていたはず
の自分が知らないことがあり、さらにそれは拓巳にとっては普通のことである、この事実は、
頭では理解出来ても、何となく心がついて行っていない感覚がした。
「拓巳らしいな」
奏は、気持ちがまとまっていないまま、拓巳の発言にのっかった。
 
 花火はラストスパートに向けて、一段階ギアが上がり、爆発音でなかなか会話がしづらい状
況になっていた。先ほどの会話が落ち着いたあと、時折加奈や千絵が「きれい」や「わぁ」と
言った声を上げるものの、四人は夜空に咲く大小様々な花をただ見上げていた。少し前のめり
になって空を見上げる千絵の横顔が視界の隅に常にいる状態で奏は花火を見ていたが、不意に
千絵の手が、奏の手の上に覆い被さるように触れた。奏は、指先に自分以外の体温を感じてい
たが、不思議と嫌な気分はしなかった。そのぬくもりは、最後の花火が終わるまで続いた。最
後の一番大きな黄金色の大輪が咲いたとき、千絵は後ろを振り返り、声に出さず、口の動きだ
けで、奏に「ありがとう」と告げた。この時、奏はそれが何を意味するか、わからなかったが
千絵の少女とも大人の女性ともつかない、表情はなかなか忘れることが出来なかった。

 花火大会の数日後、模試の結果が出た。さすがに、拓巳に成績を上回られることはなかったも
のの、拓巳はこの夏の成果を証明して見せた。予備校のロビーで拓巳は帳票を配られるや否や
ガッツポーズを繰り返していた。
「ほら、言っただろ!英語とか特に伸びた気がしてたんだよな」
模試の帳票を奏に見せ、拓巳は上機嫌だった。
「いや、単純にお前すげぇよ。マジで推薦じゃなくても、このままやってったら受かるんじゃ
ないのか?」
「だから、それ目指してるって言ってんだろ」
「でも、正直加奈ちゃんは複雑なんじゃないのか?あんまり成績伸びてないってこの前祭りの
時、言ってただろ?」
「お前、あいつがお嬢様だってこと、忘れてないか?俺らとはオツムの出来が元から違うんだ
よ」
確かに加奈の実家は開業医であり、加奈が通っている学校は県内有数の私立の進学校だった。
「え、じゃあ模試の結果も良かったのか?」
「あぁ奏より取ってたはずだぜ」
「マジかよ。あいつやっぱり色んな意味でやべぇな」
奏は、正直、焦りを感じていた。自分が思っている以上に、模試の成績が出ていなかった。
少なく見積もっても、B判定は出ると思っていた、東京の中堅私立もC判定であり、拓巳との差もあまりない。以前のようにサボっていたわけでもないこの状況で、予想以上に点数が取れていないことは少なからず、想定していた未来とは違った。
「まぁ、でもまだそんな本気出してないんだろ?」
拓巳から投げかけられている言葉は慰めではないことはわかっていた。しかしながら、拓巳も奏と同じ状況にあることに気付いた。恐らく、以前より、少なくとも中学校の頃バッテリーを組んでいた頃と比べて、奏の事を理解出来ていない、そう感じていた。
「まぁ、な。でも正直、もうちょっと取れててもいいかとは、思ってた」
精一杯強がって見せたが、これが限界だった。
「全く、敵わないよな。俺なんて夏休み本気で頑張ってもこの点数で、お前は本気出してないのにお前に勝てないんだもんな」                           拓巳の一言一言が、悪意のないナイフのように思えて、奏は、スマホの液晶に逃げた。画面に集中しているふりをしてやり過ごそうとも思ったが、咄嗟に別の話題にすり替えることを思いついた。
「そういえば、光はどうだったんだろうな?」
そう言い、奏は液晶の光に向かって問いかけた。
『お疲れ。模試どうだった?』すぐに既読が付く。『お疲れ。ぼちぼちかなー。そっちは?』『うん。まぁまぁ。どれぐらい?』『まぁ7割ってとこ。数学が全然だわ』例の何とも言えない表情の黒猫が今にも倒れそうな表情をしたスタンプが貼り付けられていた。そしてそこから間髪を入れずに送られてきた光の帳票には、今までの光の成績ではあり得ないような数字が並んでいた。
「光、めちゃくちゃ成績、伸びてる」
奏は帳票の画像の画面を拓巳に向かって見せた。
「マジかよ。俺とあんまり変わんねぇじゃねぇか・・・」
元々、勉強では光に一度も負けたことがなかった二人だけに、ショックが大きかったようだ。
「やっぱあいつの『やってないだけ』は本当だったんだな」
しみじみと過去を振り返りながら拓巳は続けた。
「拓巳にしろ、光にしろ、元が元だから伸びしろがハンパないんだよ」
奏は苦笑いしたが、内心穏やかではなかった。身近な人間の『本気』は今まで幾度となく見てきたつもりだが、それはあくまで自分が傍観者だった状態の話だった。この夏休み期間中、ある程度は本気で取り組んでいたと思っていた奏の取り組みが甘かったのか、はたまた、拓巳と光の本気が全く格の違うものなのか。奏にはわからなかったが、確かに、『このままでは、ダメだ』という意識だけはハッキリと認識できた。
「今、軽く俺らの基礎学力のこと、馬鹿にしたよな?」
拓巳は軽口を叩いているが、奏の内心は揺れ動いていた。『このままでは、拓巳と光に抜かれる?』『そんなに手を抜いていたか?』『何がいけなかった?』自問自答を続けたが、答えは見つからないままだった。
「してねぇよ。俺も、ちょっとは本気で勉強しなきゃなって思ってるだけだ」
「他の受験生に聞かれでもしたら、はっ倒されかねない発言だな」
「うるせー。事実だ」
そう言うと、奏はスマホに視線を移し、忙しく右手の親指を動かし始めた。『すげぇじゃん。地理とか負けてるんだけど』光からの返信は思いの外早かった。
『え?うそでしょ?一教科でも奏に勝ったの初めてなんだけど!』今度は微妙な猫がこっちに向けて親指を立てていた。『なんかそのスタンプ腹立つな。トータルではまだまだ差があるから、頑張ってくれたまえ』『えーなにそれムカつく!絶対入試までに勝ってやる!』
光とのやりとりを終え、一画面前に戻ると、千絵から新着のメッセージが入っていた。奏は、メッセージの最初の数文字が表示されるような設定にしているのだが、その文章を読んだ瞬間に、メッセージに既読を付けることを躊躇った。『今日、模試の結果がわかる日だったよね?どうだった?』何となく、奏は、今、拓巳や光、そして加奈や千絵にはわからない感情を抱いていると思っていた。そして、スマホの液晶を暗くし、そっと右ポケットにしまった。どこか、罪悪感に似た感情が胸を支配し、それをぬぐい取るために、奏は一人で普段は寄りつかない予備校の自習室へと向かった。