花火

八月 第二週

「ま、まぁ毎日連絡はとってるけど…なんか、これといって行動が…」
「せっかく夏なんだし、海とか祭りとかに誘えば良いだろ?」
「海?さすがにいきなり水着はハードル高いだろ」
「じゃあ、祭りだろ。てかさっきからお前、女子かよ」
相変わらず単語帳から目を離さない拓巳の口元が少し緩んだ。
「わかったよ。じゃあ、お前も来てくれ」
奏からの返答が余程意外だったのか、拓巳は単語帳をパタリと閉じ、目を丸くしながら向かいに立っている奏の顔を覗き込んだ。
「お前、結構本気なのか?」
拓巳は今にも吹き出しそうだ。
「だから、お前とあんまりこの話したくねぇんだよ」
奏はスマホを弄りながら平静を装おうとしているが、少し頬が赤らんでいた。
「とは言え光ともこんな話はしないだろ?」
拓巳の口元は緩むどころかもはやニヤニヤしていた。英単語帳なんてもうどうでも良いようだった。
「それは、あれだよ。光とする話でもないだろ?」
「でも、貴重な女子の意見だぞ?」
「茶化すなよ、拓巳。で、加奈ちゃんとの予定はどうなんだ?」
これ以上は自分が不利になるだけだとわかっている奏は、話を前に進めるべく、話題を切り替えた。
「んー。あいつも勉強頑張ってるからなー。誘えば面白そうだからってくるんだろうけど」
拓巳には高校二年生の頃から彼女がいた。同じ高校ではないのだが、当時他校の野球部のマネージャーだった櫻井加奈の一目惚れ及び猛アタックの末、二人は付き合うことになった。拓巳によれば、拓巳がどんな進路に進んでも良いように日本全国どこの大学を受けても合格出来る学力を身につけるべく、休む間もなく猛勉強中とのことだった。
「最近はあんまり会ってないのか?」
奏は何とか拓巳達の会話に話題がすり替わることを望んだが、拓巳がこんなチャンスをそうそう逃すはずがない。
「まぁな。でもお前とコンビニ彼女の話をすれば案外すっ飛んでくるかもしれねぇぞ。さっきは思いっきりディスったけど、案外スマホを弄り回す時間も有意義かもしれないな」
拓巳は右ポケットから自身のスマホを取り出すと加奈に連絡を取っているようだった。
「加奈ちゃんのニヤニヤする顔が目に浮かんで余計に具合悪くなってくるな」
奏がそう言い終わるや否や、拓巳がにやりと笑いながら液晶を奏に向けてきた。
「オッケーだって」
液晶には、拓巳『今度の花火大会、奏が例の彼女とダブルデートしたいって言ってるんだけど予定どう?』加奈『え!面白そう!絶対に行きたいから予定死んでも空けるね!』という文章と共に、何ともコメントをしづらい間抜けな黒猫のイラストがガッツポーズをしているスタンプが添えられていた。
「コレにハマってるの光だけだと思ってたわ。そして加奈ちゃんは本当に勉強してるのか?あまりにもレス早すぎて不安になるレベルだぞ」
「細かいことは気にするな。せっかく加奈も乗り気なんだ」
こうなると拓巳は頑固だった。
「わかったよ。俺からも誘ってみる」
奏は渋々スマホを弄り、「チエ」というアイコンをタップするのだった。
 程なくして電車は二人の目的地についた。今日は地元の国立大学の一部を貸し切り、駿河台予備校主催の大規模な模試が開催される。本番の共通試験と同じ環境で試験を受けることが出来るとあって、県下の受験生の多くが集まる。ここで夏休みの勉強の成果を量り、おおまかな志望校のランクや方向性を決める生徒が多かった。
「お前この夏相当勉強したよな」
電車を降りても英単語帳を読みながら会場へと向かう拓巳に、半ば感嘆しながら奏は言う。
「まぁ、加奈も頑張ってるし、俺も野球があったから大学行けた、とは思われたくないからな」
「とは言え、確実に俺よりやってるぞ」
「当たり前だろ。スタートラインが違うんだ。この夏は野球と勉強しかしてねぇよ。最後に夏祭りぐらい行ってもバチあたんねぇだろ」
そう言うと拓巳はニヤリと奏の方を見やった。奏は勘弁してくれよという素振りをしながら、試験会場へ足を踏み入れた。二人は駿河台の予備校生ということもあり、優先的に一番大きい試験場での受験になった。
「でけぇな。四百人入るんだっけか」
「バカ言えよ。お前、球場の方がでかいだろうが」
「天井があると何かでかく見えるんだよ」
そんなやりとりをしながら、二人は所定の席に着いた。予備校で見知った顔が周囲にあったが、皆緊張の面持ちといった感じでどことなくソワソワしているのが奏には伝わってきた。予備校の講師達の言葉を借りれば、彼らにとってみれば「たかが模試」ではなく「進路決定における重要な分岐点」なのだろう。そんな奏の気持ちを知ってか知らずか、試験前に時間を確認するために視線を落とした液晶には『今日は模試だっけ?頑張って!』という千絵からのメッセージが入っていた—。
 試験の手応えは悪くなかった。さすが予備校の授業とでも言うべきか、夏期講習中に授業で教えられた要素が試験の中に良く出題されていた。特に文系科目の文法事項や知識問題に関しては、ほぼ夏期講習中に授業内で網羅しており、高得点が期待できた。が、拓巳はその予想を上回ってきた。
「おい!奏、俺高校入って初めてテスト、自信あるかもしんねぇ」
全科目が終わり、大講義場を後にしようとした奏に拓巳は背中を叩きながらうわずった声で話しかけてきた。
「いつも読んでる英単語帳からそんなに出たのかよ」
試験が終わり、疲れが残る奏は半ば茶化しながら対応した。
「そんなもんじゃねぇぞ!マーク式だったってこともあるけど、全科目やったところが面白いように出てただろ?マジで良い判定出るんじゃねぇか?」
まるで野球の試合で活躍したかのように、拓巳は珍しく饒舌にたたみ掛ける。
「マジで、稲田とか慶安とまでは言わなくても、六大学のレベルではどっかボーダーいく学校あるんじゃねぇか?」
「そこまでか?確かに夏期講習中にやったところは出てたけど俺はまぁいつも通りって感じだぞ」
拓巳は奏の感想を聞いてから、急に不安に襲われたように顔色が曇っていた。
「マジかよ。お前でそのレベルって事は普通に難しかったってことだよな・・・」
「まぁ、拓巳と全部同じ授業とってたわけじゃないし、一概には言えないとは思うけどな」
「中学の期末試験ぶりの手応えだったから・・・つい、な」
拓巳は大きくため息をついた後、リュックサックを背負い直した。二人の足は自然と大学の構内にある売店へと向いていた。奏は喉が渇いていたこともあり、炭酸飲料を手に取りレジへと差し出した。
「俺のテンションを下げた罰だ」
厳つい大きな手が奏と同じ商品をずいとレジへと差し出した。
「ご一緒でよろしいですか?」
大学生のアルバイトだろうか、あまり年齢が変わらないであろう青年がペットボトルを受け取る。
「一緒で」
奏は財布の中の硬貨を握り直し、五百円を差し出した後、振り返り拓巳に言う。
「お前さぁ、そんなセコい事しなくてもいつも奢ってるだろうがよ」
「そのぐらいショックだったんだよ」
奏から差し出されたペットボトルを受け取り拓巳は続ける。
「結果出るのっていつだっけ?気になって仕方ねぇや」
「早くて木曜って言ってなかったか?っていうか最後に解答配られただろ?そこまで気になるなら帰って自己採すりゃいいだろ」
「いや、今日はもう疲れたから帰って寝る」
言い終わるか終わらないかのうちに、拓巳はスマホに目を移し、懸命に液晶を弄っていた。
「そういえば、千絵ちゃん、祭り行っても良いってよ」
目線は液晶にあるまま、拓巳の口角が上がるのが見えた。
「おっけ。加奈にも言っとくわ」
「すげー嫌な予感がすんだけど」
そう言うと同じく液晶に目を移していた奏は、この瞬間に千絵から来た返信に一瞬どうすれば良いかわからなくなっていた。『模試お疲れ様!そういえば奏さんってどこの大学行きたいの?』目ではその文字を淀みなく拾えているし、千絵が何を聞きたいのかも解る。他意も悪意もないことも解る。千絵はただ、単純に少し先の未来の話をしたいのだ。気を遣うわけでもなく、ごく当たり前に受験生と会話をする話題のひとつとして志望校の話が出ているに過ぎないのだ。ただ、相手が千絵だからか、このタイミングだからかは解らないが、頭が真っ白になった。
「どうした?」
奏の様子が少しおかしいことに気付き、拓巳が液晶から手を止め、目を離し顔をのぞき込んでくる。
「いや、なんでもない」
二の句が継げない。
「なんかあったのか?」
拓巳は家路につく歩みを止めた。
「いや、マジでなんでもない。急に考え事っていうか、大事なこと思い出したんだ」
「そうか。気分でも悪いのか?」
「いや、大丈夫。行こう」
奏はそこから家に着くまでスマホに触れなかった。
 翌日、バイトに向かう奏はどことなく良い気分ではなかった。原因は未だにしっくりとはきていなかったが、意図的に千絵に返事をしなかったのは初めてのことだった。どことなく学校や大学のことについて、疎いと思っていた千絵から志望校のことを聞かれた事がショックだったわけではない。何気ない些細なやりとりがスムーズに出来ない自分について、また、未来のことについて無意識的に考えることを放棄している自分について、驚いていたのだ。確かにキッカケは千絵だった。光から同じ事を聞かれていても恐らく今まで通り、茶化したり何となくかわしていたりしただろう。でも、不器用なほど真っ直ぐ生きている千絵からの問いかけだったからこそ奏は答えられなかった。
「おはよー。今日、遅かったね」
コンビニに出勤すると先に休憩を取っていた千絵が椅子に座りタピオカミルクティーを飲んでいた。
「おはよー。昨日返事返してなくてごめんな」
自分でもビックリするほど素直に昨日の件について詫びている自分が居た。自己防衛だった。
「全然気にしてないよ。模試終わった後で疲れてたんでしょ?」
前髪をヘアピンで上げて、ストローを咥えながら千絵は真っ直ぐ奏を見つめていた。思わず目をそらす。
「さすがに、丸々一日は疲れるよな」
頼む。志望校の話から、話がそれてくれ。そう思う自分が居た。
「まぁ、そうだよね。千絵も丸一日勉強したらめちゃくちゃ疲れるもん」
「うそつけよ。丸一日勉強すること、ないだろ」
「あー!またそうやって馬鹿にする!こう見えて、ちゃんと経営の勉強とかもしてるんだよ?」
「はいはい。わかったわかったから」
よし。上手くいつもの流れに持って行けてる。大丈夫だ。千絵の反応をみて安心している自分に気付く。
「でも、昨日嬉しかった。花火誘ってくれるって思ってなかったから」
額を見せ、頬を染めてはにかむ千絵はいつもより幼く見えた。
「いつもの連れが、行こうって言うからさ」
その表情は、狡い。思わず目をそらす。
「楽しみにしてるからね!浴衣どれ着ようかな−?奏君って何色が好きなの?」
「女の子と花火とか行ったことないから、わかんないなぁ。とりあえず着替えてくる」
「はーい」
背中越しに千絵の返事が聞こえる。昨日から千絵の一挙手一投足に気持ちが揺さぶられる。自分のペースで物事が進まないのはあまり経験のない感覚だった。控室の奥で袖を通したコンビニの制服が、肌に触れるヒヤリとした感覚がその気持ちを余計に際立たせた。
「ところで、その連れっていうのは、いつも話してる『タクミくん』?」
控室の共有スペースに戻った奏に、興味津々で千絵が訪ねてきた。
「そうそう。野球部の。彼女と一緒に来るよ」
「え!ヤッバ。春の時テレビで取り上げられてた人でしょ?有名人じゃん」
「そんなんじゃないでしょ。普通の奴だよ」
「そりゃあ、幼なじみからしたらそんなもんだよ。でもアスリート体型で、あのルックスでしょ?絶対モテるよね。プロになるかもだし!」
「あの顔は好み分かれるでしょ。あんまモテてはなかったし」
「でも絶対彼女さんも美人でしょ?なんか並んで歩くの恥ずかしいかも。緊張してきた」
「拓巳に対して幻想抱きすぎじゃない?たぶん期待してるとがっかりするような奴だよ?」
「あ?もしかして今、タクミ君の話ばっかりするから、一瞬妬いた?」
悪戯っぽく顔を覗き込んでくる千絵に心が波立つのがわかる。こういう時、どう反応すれば正解なのか、奏にはわからなかった。
「そ、そんなんじゃないよ。さ!レジ行ってきます」
今の奏には『かわす』ことしか出来なかった。背後では千絵があからさまに不満げな表情を浮かべているように思えた。

 

 待ち合わせのショッピングモールに佇む、桜色の浴衣を着た少女は、可愛いというより美しかった。いつもは下ろしている長い髪は、まとめあげられており、より顔の造形美を際立たせるように見えた。派手好きな普段の装いとは違い、淡いタッチで描かれた控えめなアサガオの柄もその美しさに一役買っているようだ。
「ちょっと!奏くんやったじゃない!めちゃめちゃキレイな子、ゲットしてて!なんなの!隅におけないこの感じ!」
奏の背中をバシバシと叩きながら櫻井加奈は興奮している。
「痛ぇよ!久々に会ってもやっぱり『加奈ワールド』全開だな」
奏と拓巳の間に立つ長身の少女は、エキゾチックな顔立ちで大きな口を開けて笑った。
「加奈ワールドってなにそれヤバい。拓巳アンタ影でいつも私のことそんなふうに言ってるの?」
「俺じゃねぇよ。奏だけ。ちなみに、いつも残念美人って言ってるのも奏だけ」
「何それ、褒めてんの?貶してんの?」
もう一度背中をバシッと叩かれると思わず奏はよろけた。細身の長身でモデルのような体型をして容姿も整っている加奈は確かに目を引く存在だが、奏はどうしても自分とは対照的であるこの快活な、さらに言えば豪快な性格があまり得意ではなかった。
「あ!奏さん!」
よろけた奏が人混みの中でも目立ったのか、千絵が手を振って来た。
「初めまして、千絵って言います。今日はお二人の花火大会、お邪魔してしまってすみません」
千絵は三人と合流すると、自己紹介と共に丁寧にペコリとお辞儀をした。
「初めまして!加奈です!めっちゃ可愛いね!わ、ネイル?花火描いてあるの?え、すごいすごい!」
加奈は得意のマシンガントークを炸裂させている。