花火

八月 第一週

 浅葱西高の夏休みは非常に短い。公立の進学校にはよくある話かもしれないが、終業式の次の日から補習が組まれる。ほとんどの生徒はその補習に参加するため、八月に入ってからやっと本当の夏休みが始まる、といった具合だ。生徒はほぼ全員この風習に従い、終業式が終わった後も朝から学校に通うのであった。
「結局、過去最高の世代とか言われてたウチらも、全国行けたのは陸上と水泳の個人種目だけだったね」
補習が終わり、それぞれの家路につく道中で光は奏と拓巳に投げかけた。
「まぁ、こればっかりはしょうがないよな。私学みたいに選手集められない公立にしてはよくやった方だと思うよ」
「拓巳ってなんか引退した途端に冷めちゃってるよね。なんかジジくさい」
二人の隣で奏はケラケラと笑っている。
「冷めてるやつは学校終わった後毎日グラウンドに顔出して無いはずだぞ」
奏の声は茶化している中にも真剣さが顔を覗かせていた。
「『私だって』って顔してるぞ、奏。フォローしてやれって」
「だーれも光が冷めてるなんて言ってないだろ?」
二人の一歩前を進んでいた光はくるりと向き直って急に話題を変えてきた。
「そう言えば二人とも夏休みはどうするの?何する予定なの?」
「とりあえずバイト…かな?」
奏はさも当たり前のように答えた。少し考えた後、拓巳も続く。
「予備校に通うかな」
「え?」
奏と光の疑問がシンクロした瞬間だった。
「お前、夏休み中セレクションとかあったりするんだろ?部活に顔出すんじゃないのかよ?」
「そうだよ!まだドラフトからプロ入りだってあるかもしれない感じなんでしょ?」
三人はいつも別れる国道の交差点の角にあるコンビニの前まで歩みを進めていたが、奏と光はその場に足を止め、拓巳の口から何が語られるかを知りたいようだ。
「まぁ、一日中練習ってわけでもねぇし、大学の監督さんからも留年とかありえないって脅されてるしな」
拓巳は大きな手でぽりぽりと頭をかいている。
「だからって予備校って拘束時間が長すぎるだろうがよ」
奏は半ば呆れているようだ。
「奏、お前も暇なら一緒にどうだ?」
そんな奏を他所に拓巳は予備通うことを誘ってきたものだから、光と奏はたまったものではない。
「拓巳、どうしちゃったの!?熱でもあるの!?病院行く?」
「拓巳、高橋に何かされたのか!?」
「なんでそうなるんだよ。そんなんじゃねぇよ。元々勉強は嫌いじゃないんだ」
光は口をパクパクさせている。
「でも高校入ってから、授業中も寝てたし成績も私とあんまり変わんなかったでしょ?」
「練習がハード過ぎたんだよ。それに中学までは光よりも成績良かったんだぞ?」
光はそうか、と深く頷いた。
「でも何で俺まで巻き込むんだよ」
奏は納得がいかない様子だ。
「あれ?お前大学行くんじゃないのか?お前の頭があれば国公立だって目指せるだろ?一緒に授業受けて俺のわかんないとこ教えてくれよ」
「お前それ本気で言ってるのか?」
奏は拓巳の真意を完全に掴めていないようだ。
「半分本気で半分冗談だ。でもなんとなく、今のお前、フラフラしてると良くないと思うんだ」
拓巳の眼は真剣そのものだった。 
「フラフラってなんだよ」
奏は少しムッとしている。
「じゃあ奏、志望校どこなの?学部は?」
二人の間からひょっこりと光が顔を覗かせる。
「なんだよ急に二人して。お前らも決まってないだろ?」
「拓巳は既に手元にある選択肢の中から選んでるところ、私も監督と相談して法大のセレクション受けて、結果が良ければ推薦だよ?奏はそういうビジョンみたいなもの、あるわけ?」
「結局、部活生は進学に強いって言いたいだけかよ」
奏は吐き捨てるようにそう言ったが、表情からはいつもの茶化すような冗談のようなニュアンスを含むものだと感じ取ることができた。しかし、拓巳も光もそれを冗談だから、と看過しなかった。
「そういうこと言いたいんじゃないの、奏」
「俺はそういう事言われたくないから、自分でも勉強しておきたいんだぜ?」
ここまで言われると流石の奏も、二人の普段見せない真剣さに思わずたじろいでしまったようだ。
「わ、わかったよ。予備校…ね」
 二人と別れた後、奏は何となく将来のことを想像してみたが、ぼんやりとは思い浮かべることは出来てもどこかリアリティに欠けていた。拓巳や光は具体的な進学先や未来への展望を口にしていたが、奏はそれを自分に置き換えて考えてみると、自身の未来に対して小さな服を無理やり着せているような居心地の悪さのようなものを感じていた。この感覚は一学期の末に行われた高橋との面談の時にも訪れたものだったと奏は思い返していた。

「時任は進学希望でいいんだな?」
がらんとした教室に野太い声が響く。机の上で組まれた手には夕陽に照らされた腕時計が、鈍く光っていた。
「まぁ、一応は」
奏の返事を受けて男の右の眉が一瞬ぴくりと動いた。
「一応、か。志望校、決まっているのか?」
組まれている手がほどけ、男はペンを片手にメモを取ろうとしている。
「いや、特には。行けるとこに行こうかと」
男は一つ大きな息を吐いた。それはため息よりは深く、深呼吸よりは浅かった。
「何のために、大学に行くんだ?」
ペンを握ったまま、男の目は真っ直ぐに奏の目を見据えていた。
「モラトリアム…ですかね?」
男はふっと笑った。しかし奏にはこれが決して人を馬鹿にしたり嘲笑ったりするものではないと感じた。
「よくそんなことを自分の口から言えたな。まぁ、今の君にはぴったりな言葉かもしれないが、正しい使い方ではないかもしれないな」
「と、言うと?」
高橋の言葉に珍しく食いついた自分に奏は少し驚きながらも、その真意を知りたくなっていた。
「モラトリアムの本来の意味は『しばらくの間やめること』だ。つまり、本来なすべき、なされるべきことを一時期中断する、と言う意味合いを含んだ言葉なんだ。その点、今の君になしたいこと、なすべきもの、そんな具体的なものがあるのか?」
いつもは鼻につく高橋の言い回しも今は気にならなかった。
「でも、モラトリアムって猶予期間ってことですよね?それは何をするかっていうことの決定をする猶予期間でもあるはずじゃないですか?」
高橋は、ふむ、と言った具合に手に持っていたペンを静かに机の上に置き、腕組みをしてわずかに上の方を見上げながら答えた。
「そうともとれる。が、大学には厄介なことに学部がある。そして学部によって試験科目が異なる。高校受験じゃないから三科目あるいは五科目をただやればいい、というわけでもない。君が考えている以上に、実はみんな将来について考えていたりするんだ」
「まぁ、でも理系に進んでおけば、ではあるわけですよね」
高橋の眉、いや、こめかみがハッキリと動くのがわかった。
「一般論ではな。ただ、そんな気持ちでは、いざ本気で何かをなしたいと考えたときに大きな遅れをとることになるぞ」
「先生は、何を言いたいんですか?」
奏の頭の中には『じゃあ、どうすればいいんだ』という考えがあった。そしてそれを口にした。
「自分でもっと自分のことを考えろ。と言いたいんだ。もっと言えば自分ともっと向き合うべきだ、そういう時期だ、と言うことも、だ」
「それで何か見えてくるものですか?」
奏は本気でわからなかった。
「やってみればわかるさ。磯部や三ツ村みたいにな。あいつらは自分の口で自分の未来について話すぞ。多少不確かでもな」
「それなら、俺だって見えてます。どうなるかはわからないけど」
高橋は一瞬眉をひそめ、浅く息を吐いた。
「どうしたいか、が決まっている上でどうなるかはわからない、これは筋が通った話だ。一応こうなれば良いと言う『正解』があるからな。ただ、時任の場合は糸が切れた凧、みたいな話だ。どこに飛んでいくか自体が定まってない。似て非なる話だよ」
ー結局、その場で奏の未来だとか将来だとかについて何かが決定することはなかった。しかし、このとき高橋と交わした話の内容はこの後の奏に大きな影響を及ぼしていく。高橋や拓巳や光にとっての未来の決定は今のタイミングなのかもしれないが、奏にとってはそうではなかった。ただ、それだけの話かもしれないが、この日の面談は、奏にとって初めて自分の将来と正面をきって向き合う機会でもあった。

 駅前の古いビルのワンフロアに国内有数の駿河台予備校はあった。県内随一の進学校である浅葱西高の生徒の多くは夏期の補習が終わり、二学期が始まるまでここで受験勉強をするのだった。駿河台予備校の特徴は東京にある本校から行われる生配信授業にあった。生徒には一人一台のパソコンが与えられ、夏季講習中は自分のレベルにあった授業をさながら対面授業のように受けることができた。
「数学の財津、クセやばくないか?」
奏は予備校の休み時間、自動販売機の前で拓巳に先ほど受けた授業の内容について話しかけた。
「まぁ、面白いおっさんだよな。わかりやすいし」
拓巳は視線を先ほどとったノートに落としながら答える。
「でもやっぱ学校の授業とは違うよな。受験勉強って感じがする」
「確かに。こんなショートカットって出来るんだって感じだったな」
「覚えてない公式とかもやっぱあるな」
「俺なんて部活のせいで二年から授業中寝てばっかだったからほとんど覚えてないぞ。絶望的だ」
参ったといった具合にはにかむ拓巳の手には、現役時代には決して口にしていなかったコーラの缶が握られており、ノートをめくっては、それはそれは美味しそうにコーラを飲んでいた。
「でも一次は何とかなりそうじゃないか?」
奏は拓巳にそう問いかけたが、拓巳からは賛同を得られなかった。
「お前、人の話聞いてたか?お前からすればそうかもしれないけど、俺からしたら何から手つければ良いかわかんないレベルだ。まだ甲子園の時にやったピッチャーの方がまだ攻略出来そうだ」
予鈴が鳴ると拓巳はコーラの残りを一気に流し込み、次の授業に向けて自分のブースに向かって行った。
「次、何受ける?」
奏は、拓巳の背中に問いかけると
「生物」
とだけ返ってきた。結局奏はなんとなく生物をやる気にはなれず、一次試験向けの英語をとることにした。
 英語の題材は地球の環境問題についての論説文だった。地球温暖化や人口の問題、化石燃料の問題など現代には数多の問題が山積しているが、どれも「ヒト」が関係しており、抜本的な解決には「ヒト」そのものを地球から取り除かなくてはならない、といったものであった。
「そんなの元も子もねぇよ」
画面の向こうで解説をする中年に見える講師の授業を聞きながら奏は思わず呟いたが、この論説文に対する中年講師の反応は奏の興味を引くのに値した。
「そもそもこの筆者の考えは、私個人の意見とすれば極論すぎるのです。私たち人間がこのまま発展していくにはどうすれば良いか、という点に関しての論文であるはずがいつの間にか『そもそもヒトはいない方が良い』という結論に、つまりは論点がすりかわっているのです」
副島の言っていることは問題を解く上では全く関係のない、言わば点数にならないものであったが、奏にはこの文章の本質をついているように思えた。
「しかしながら、面白いことにこの筆者が指摘している内容は、この問題を解決する最短で最適なルートとも言えます。この点が非常に悩ましい。国語の記述問題であれば丸、とまでは言わないとしてもほぼ満点近い三角がつく回答でしょう」
実際にこの文章を読み、筆者の結論を目にしたとき奏は確かにな、と感じていた。
「しかし、このテーマのもっと根本的な問題は、主役であるヒトを取り除く、という考え方が許されない以上、あらゆる手段を尽くしたとしてもそれは問題の先延ばしでしか無く、いつかは終わりが来る、ということでしょう。現に永遠に生きていられる人間はいないことですし、恐らく私よりも皆さんの方が長生きをします。『未来のために』と言えば聞こえはいいですが、結局はどんな策を巡らせてもその結果は遠い未来にしかわからず、その時に自分はこの世にいない以上、偽善と言われても仕方がないことなのです」
まさに、高橋と自分の関係だ、と奏は感じた。奏がどうなろうと高橋には関係がないし、奏の行く末を高橋に確認する術はない。なんなら、ここで自身の人生と向き合い、大まかな方向性を決めたとしても、それはいつか訪れる本当に自分の人生をどうするか決定するタイミングまでの時間稼ぎでしかないのではないか?さらに言えば、今はそのタイミングではない以上、考えても無駄とまではいかないが本質的な解決には繋がらないのではないのか?という疑問が生じた。
「かの有名な名言、人間は考える葦である、という言葉を借りれば、策を巡らせること自体に意味があるのかもしれませんが、その部分に関しては皆さんの考えに任せるとして、最後の問六の問題を見てみましょうー」
ふとしたきっかけで受講した中年講師の授業は、その問題自体の内容よりもこのサブトークの印象を奏に残した。

 夏休みが進むにつれて、拓巳の顔つきはどんどん受験生のそれになっていった。隙間の時間を見つけては英単語や世界史の用語集を眺める横顔があった。その姿を見るたびに奏は純粋に凄いと思う尊敬の気持ちと、真っ直ぐに一つのことを突き詰めていく、言い方は悪くなるが単細胞な面を少し蔑む気持ちとが入り混じった、名前のない感情を抱くことになっていった。
「よく、こんな揺れるなか細かい文字が読めるよな」
電車の開かない側のドアに左肩を持たれかけ、左手で吊革右手で英単語帳を眺める拓巳に奏は言う。
「ただ、スマホ眺めてるよりは百倍有意義な時間だぜ?」
拓巳の目線は右手に向けられたままだった。
「スマホの中には癒しがあるぜ?」
奏の右手にはスマホが握られており、先ほどから右手の親指がしきりに動いていた。
「例のデートの子か?」
「違ぇよ!」
「え。マジかよ。あの後何も進展なしか?」
「ないこたぁ、ないけど、なんていうか、そんなんじゃないし」
自己弁護は苦手なようで奏はしどろもどろになっている。
「でもグイグイ来てるんだろ?そして可愛いんだろ?さらに言えば年下なんだろ?いかない理由ないだろ」