チョイス

九月 第四週

高橋は思わず悟られないように、真田に背を向けコーヒーメーカーの方を向いていた。黒いコーヒーメーカーのボディには笑っている真田の顔が反射して映っていた。
「卒業の前に、CDが出来たらセンセイに聴かせるために持ってきたいんですけど、入試前で忙しいですかね?」
「馬鹿か。どこに卒業生の来校を拒む担任がいるかよ。いつでも来ると良い」
「そっすね。ありがとうございます」
ボディに映る笑顔は先ほどよりも大きなものとなり、少しだけ滲んで見えた。
「俺、センセイのこと少し誤解してたかもしれないっす。今日話せて、本当に良かったです。ありがとうございました」
「そうか。それはよかった。俺も最後にお前と話せて良かったよ。今後の詳しい手続きとかに関しては、またお母さんに連絡するから」
「はい。最後までご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
そう言うと、真田はぺこりとお辞儀をした。高橋はまだ真田の方に向き直れずにいた。
「わかったよ。じゃあな」
「はい。ありがとうございました」
真田はそう言って踵を返すと、進路指導室の出入り口のドアの前でもう一度深くお辞儀をした。高橋は二度とその姿を忘れないだろうと思った。長い教師人生で、初めて退学者を出した日、ではなく、もっと別のラベリングでこの日のことを思い出すだろうな、などと考えていた矢先、机の上の電話が内線を知らせた。
「はい、高橋です」
「あ、高橋先生。四組の三ツ村さんがしばらく先生を探してたので、進路指導室で面談中じゃないかって伝えてたんですけど、また来ちゃったもんだから、どうしようかって電話したのよ」
声の主は事務からだった。
「あぁ、今面談終わりました。今職員室ですか?もし可能なら、そのまま進路指導室に来るように伝えてもらっていいですか?」
「あぁわかりました。じゃあ今から行かせますんで」
そう言い終わるか否かのタイミングで内線はぷつりと切れた。高橋は感傷に浸る暇すらないのかと、思わず苦笑いが出てしまったが、それぐらいが良いのかもしれない。いつまでも真田のことばかり引きずってはいられないのだ。コンコンと進路指導室のドアがノックされる。
「三ツ村か。入って良いぞ」
「失礼します」
ドアが開くと、三ツ村が真剣な顔をして立っている。
「どうした?文化祭のことなら、後で教室に行くと言ったはずだが、別件か?」
「はい。昨日先生が仰ってた、指定校推薦についての話なんですが、少し相談したいことがありまして」
「そうか、何か聞きたいことでもあるのか?」
「いえ、もし頂けるなら明翔大の指定校推薦を受けたいな、と思いまして」
「明翔大?東京だぞ?どうしたんだ?」
「女子バスケのリーグがありますよね?私、やっぱりバスケでどこまで行けるかを試したいです。なので、今月の明翔のセレクションも受けた上で指定校の校内選考が通れば明翔に行きたいです」
正直、高橋からすれば意外だった。部活が終わり、部活のことを断ち切ることによって勉強に熱が入っていたと思っていた生徒からまさか、部活動ありきの指定校推薦の直談判が来るとは思ってもみなかったし、その相手が三ツ村だと言うことがさらに驚きに拍車をかけた。
「そうか。明翔はセレクション受からなくても行くのか?」
「いえ、まずはセレクションで受かるのが第一だと思ってます。名門なのでセレクション組じゃないと苦労するのは先輩達を見て知っているので。どうせなら高校で取れなかった日本一、とってみたいじゃないですか」
真田といい、三ツ村といい、生徒には本当に驚かされることがある。三ツ村の言うことも実に筋が通っていた。高橋は心の中で橋本は本当に良い生徒、いや、キャプテンを育てたな、と感心していた。
「そうか。良いと思うぞ。ただ、夏休みから全然体動かしてないだろ?セレクションの準備は大丈夫なのか?」
「それなんですけど、文化祭が終わったら、急ピッチで仕上げようと思ってます。さすがに今から仕事を放り出すことは出来ないので」
「そうだな。良い心がけだ。頼りにしてるぞ」
「はい。お忙しい中、お時間を頂きましてありがとうございました」
そう言って一礼する三ツ村の表情は実に晴れやかだった。

 奏は、半屋上で福田と別れた後、一人になりたい気分になりバイトまでの時間を適当に歩いて潰すことにした。この散歩は、何か考え事をしたいときの奏の癖でもある。帰り際に光からは指定校のことについて高橋にこれから相談しに行くと伝えられた。真田は自ら学校を辞め、音楽の道に賭けていくことを告げられた。奏は、自身にももうすぐ選択を迫られる時間が近づいていることを肌で感じていた。そして友人達が葛藤しながらも自分の意志で一歩を踏み出す姿を目の当たりにし、焦る気持ちが芽生えていた。どちらかといえば、自身は『失わない』選択肢を探していたのだ。最大公約数を探し続けているとも言えるかもしれない。その姿勢が酷く後ろ向きに感じられてしまった。そんなことを考えているなか、右ポケットが振動した。千絵からだった。『今日、バイトのシフト何時まで?』『九時までだけどどうした?』『おっけー。帰りに少し話したいことあるんだけど、ちょっといい?』『なんだよ、ここじゃダメなのかよ?』『まぁ、出来れば直接が良いかな?』奏は、千絵が何を伝えたいのか全く見当が付かなかった。真田の時のような胸騒ぎもしなければ、心当たりもなかった。何より、千絵からこのような提案が来ること自体初めてだったこともあり、戸惑いの方が勝ったのかもしれない。『じゃあ休憩終わっちゃうから、また後でね』奏は千絵からのメッセージを確認すると、シフトの時間までは余裕があったが、ひとまず早めにバイト先であるコンビニエンスストアに向かうことにした。
 花火が終わってからの奏と千絵の関係性は驚くほどに今までと何も変わらなかった。会話の節々に奏が掬った金魚の話題が出てきたり、千絵から金魚の写真が送られてきたりという変化
はあっても、少なくとも奏の中での意識に変化はなかった。そのことを拓巳や加奈に話すと非難囂々だったが、その意味さえも奏は量りかねていた。
「お疲れ」
先にシフトに出ていて、棚を整理している千絵にいつも通り声をかける。
「あ!お疲れ!今日終わったらちょっと付き合ってよ」
「それさっき聞いた」
「でも時間もらえるか、返事くれてなかったでしょ?」
「あ、そうだった。時間は大丈夫。でも今お客さんとかいないし、ここで話しちゃえば良くない?」
「ここじゃもっとダメなの!っていうか品出しめちゃくちゃ多いから、早く着替えて出てきてよ」
「わかったよ。ちょっと待てて」
事務所の裏に入り、自分のロッカーの前で制服に着替えている間も、奏は色々なことを思い返しては千絵の伝えようとしている内容を想像してみるのだが、どれもイマイチしっくりとこず、最終的に考えるのをやめることにした。品出し中も千絵はそのことには全く触れず、いつ
ものようにくだらない話をしては二人で笑い合っていた。八時になると先に千絵はあがり、事務所の控え室で奏のバイトが終わるのを待っていた。
「それで話っていうのは?」
九時になり、奏があがったタイミングで、二人は事務所から出て、駅へと向かって歩き始めた。
「うん。言いづらいんだけどさ、私、バイト辞めようと思って」
想定外の一言に、奏は虚を突かれ一瞬、千絵が何を言っているかがわからなかった。
「試験って言うか検定が近いんだよね。専門も卒業近いし、そろそろそっちの方に集中しても良いかなって」
「え、でも学費とかあるんでしょ?」
奏は千絵から聞かされていた状況との違いに戸惑いを覚えていた。
「私はどっかの誰かさんとかと違って補習も予備校も夏休みもないからね。毎日しっかり働いてたら学費分プラスアルファぐらいはもう稼げてるんです」
奏はまた置き去りにされた気持ちになった。千絵は自分が受験期にやめるタイミングまでは、バイトを続けているだろうという無意識的な想像が勝手に働いていたのだ。
「そ、そっか。まぁ確かに検定とかは大事だしな。ネイリストっていう夢があるんだし、そっちを優先するのが当たり前だよな」
「でも奏さんも、大学入試近いでしょ?バイトいつまで続けるつもりなの?」
奏には全く頭の中にない質問だった。
「うーん。そうだなぁ。十月までとか?」
「ってことは来月?ウチと一緒ってこと?店長にそれ言ってる?」
「いや、言ってない。そっちは?」
「私は、それとなくは伝えてるけど、まだ正式には何も伝えてない。流石にこの二人一気に辞めたらシフトぼろぼろになっちゃうよね・・・」
奏はそれより千絵が辞めようと思っていたことのショックの方が未だに大きかった。
「でもそっちの方が急を要してるわけだし、俺は多少遅くなっても大丈夫だよ」
せめて小さな気遣いや優しさを見せることが最適な回答だろうと思っていたが、千絵の表情は今までで見たどのときより険しかった。
「奏さんはさ、それで良いの?大学入試って一応、人生かかってるんじゃないの?」
真っ直ぐ見つめてくるその瞳は、先月の花火大会のそれとは全く異なるものだった。
「いや、俺はバイトしながらでも大丈夫なんだ」
「ふーん。そうなんだ。じゃあ、遠慮なく明日店長に話しさせてもらうね」
—二人は別れを告げて、千絵は改札を抜けて駅のホームに向かっていったが、その背中は真田の背中と少し似ていた。自分の意志で自分の足取りを決めた者がもつ特有の背中だった。かつては、拓巳や光、その他の部活動を懸命にやっている生徒や、入試に対して本気になっている生徒など、限られた人間のみが持つと思っていた背中を、真田や千絵のように身近な人間も見せ始めている。十八歳が迫る中、それぞれにとって重要な選択に直面しているということを頭では理解しているはずだった奏も、いざ自分の番が回ってくるとなかなか行動に移せていないことが浮き彫りとなり始めていた。奏の中で、将来に対する漠然とした不安、というものを初めて明確に感じた瞬間だった。