チョイス

九月 第三週

「私は先生である以前に、音楽家でもあるからな。お前が言ってることもよくわかる。ちなみに、俺は若い頃自分の才能に、そして未来に賭けることが出来なかった人間だ。だけどお前は違う。向き合って出した結果が音楽だった、それだけの事だ」
奏は、福田のことをなんとなくやる気がない音楽教師だと思っていたが、今は見え方が全く異なっていた。こんな教師が居るのならば、毛嫌いしていた『教師』というものは、いくぶん想像していたよりもマシな生き物かもしれない、とも思えてくるようであった。
「ありがとう福田っち。時任っちと同じくらい感謝してるよ。そのついでにこの335、俺に譲ってくんないかな?」
真田は悪戯っぽく舌を出して笑ったが、福田はやれやれという表情でそれに応戦した。
「そんな事自分から言うやつがあるか。ひょっとしたら貰えたかもしれないが、自分でチャンスを台無しにしてしまったことを、よーく覚えておくんだな」
「えー!そんな!これ、貰える流れだったよねぇ!時任っち!」
「あぁ。今のはお前がバカだったな」
三人はいつものように笑っていた。西の空に沈む夕陽が、335と呼ばれるギターの色に似ていた。真田にはその色がよく似合うようだった。
「じゃあ、俺は高橋先生の所に行ってくるわ!」
「あぁ。元気でな。ライブ、行きてぇな。誘ってくれよ」
「うん!誘う!ちゃんとCDリリースするとき、連絡する!ツアーの初日は多分地元のライブハウスだからさ!」
真田はいつもの少年のような笑みで手をブンブン振っていた。
「福田っちもありがとう!また335弾かせてね!」
「いつでも来なさい。待ってるから」
福田の表情は柔和な中にも力強さがあった。真田が半屋上を去ったあと、また、先程のメロディを福田が口笛で吹いた。
「それ、なんの曲ですっけ?」
「あぁ、君もこのメロディに魅せられているのか。これはね、彼が作曲したものだよ。ここで、半屋上で生まれたんだ。俺はこの曲が大好きでね」
「何て、曲なんですか?」
「秒針って曲だよ。秒針より、早く生きろってね。彼なりのそういうメッセージが込められてるらしい」
奏は、思っているより真田のことを知らなかったのかもしれない。いや、知ろうとしなかったのかもしれない。奏は高校でできた唯一の友達が、どこか自分の知らない、遠くの世界に旅立ってしまったような気がした。その世界はわからないことだらけで、安全や安心とは程遠いものだ。しかし、そこでなくては得られないものがあるように思えた。そしてそれは恐らく、モラトリアムと呼ばれる世界では手に入れることは出来ない。奏は初めて、モラトリアムの外側の世界をもっと覗いてみたいと思うようになった。両耳の鼓膜には福田が「秒針」と呼ぶ曲のメロディが残っているようだった。
 
 

 職員室に現れた真田の表情は、妙にすっきりと晴れやかに見えて、高橋は妙な胸騒ぎと諦めに似た感情に支配されていた。
「随分遅かったじゃないか」
なるべく、真田の言葉に耳を傾けようと落ち着いた言葉で始めることにした。
「すみません。福田先生と時任と半屋上で話してたら長くなっちゃって」
「今日まで休んでおいて堂々と遅刻の原因を正直にいうやつがあるか」
真田が今日何を伝えに来たか、ということを高橋はある程度予想が出来ていた。世間でも言われるような『高校を出ておいた方が良い理由』や『ここまで続けてきたんだから、あと半年我慢すれば』のようなありきたりな言葉ではなく、自分だからこそ伝えられる言葉があると自負していた高橋は、真田の表情を見たことにより、少し身を潜めているように自分でも感じられた。
「すんません。それで話なんですけど。ぶっちゃけガッコ辞めようと思ってて」
「そうか。どうしてだ?立ち話もなんだ。進路指導室で座って話そうじゃないか」
高橋はそう言うとサッと振り返り、職員室の奥にある進路指導室に向かいドアを開け、真田を招き、自身は奥のソファに腰掛けた。
「まぁ、座りなさい。コーヒーでも飲むか?」
真田は手前のソファに向き合うように腰掛けた。西日に照らされている手前のソファからは、真田が座ると同時に細かい塵が巻き上がるのが見えた。
「失礼します。いや、俺コーヒー苦手なんで、お気持ちだけで大丈夫です」
「そうか。俺は飲んでも良いか?」
真田の返事を聞く前に高橋は、進路指導室に置いてある自前のコーヒーメーカーの前に立ち、コーヒーを淹れる準備をしていた。
「はい。大丈夫ですよ。それより、ガッコ辞めるって言ったのに、止めないんですか?」
振り返ると真田は本当に不思議そうな表情でこちらを見つめている。高橋はコーヒーメーカーの方に向き直ると笑い声を上げながら、あえて尋ねてみた。
「真田、お前止めて欲しかったのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、普通大人っていうかセンセイってこういうとき『辞めるな!』とか言って止めてくるよなぁって思ったりして」
「だから理由を聞いてるじゃないか」
「まぁそうなんですけど。俺がバンドやってるのは知ってますよね?」
「あぁ。去年の文化祭でもいい演奏をしてたじゃないか」
コーヒー豆が砕ける音と香ばしい香りが部屋を包む。
「はい。それでバンドで、インディーズなんですけど、CDを出せるようになったんです」
コーヒー豆を砕く音が止むのを待って、真田がハッキリとした口調で語り始めた。
「それで、たかがインディーズって思われるかもしれないんですけど、結構大きなメジャーレーベルの傘下のレーベルなので、上手くいけばメジャーデビューとかも出来るって言うか。上手く言えないんですけど、初めて掴んだチャンスを、もっと言えば時間を無駄にしたくないんです」
否定しようと思えば、いくらでも否定できる内容だった。成功する保証は?ダメだったときは?何故高校を卒業した後ではダメなのか?本当に才能があるのか?大学に通いながらじゃバンドは出来ないのか?一時的な気の迷いではないか?本当に後悔しないのか?さっき真田が口にした『普通の大人』や『ガッコのセンセイ』的な考えが頭を駆け巡る。
「ほう。それで、それが学校とどう関係があるんだ?」
背中越しに意を決したように息をのむ音が聞こえる。
「正直に言うと、ガッコにいる時間を音楽に充てたいと持っています。それぐらい本気なんです」
シューッと音を立ててコーヒーメーカーから蒸気が噴き出す。自身がついたため息と重なってくれて本当に良かったと高橋は感じた。目の前にいる十八歳の少年いや、男の決心は揺るぎそうにない。今、目を見ると完全に飲まれそうな気がするほど一言一言は力強かった。
「そうか。じゃあ、今から言うことは普通の大人や学校の先生が言うことではなく、一人の人間が言うことだと思って聞いてくれ」
そう言うと高橋は、出来上がったホットコーヒーを真田に手渡し、スティックの砂糖とコーヒークリームが数個ずつ入った容器を机に置いて続けた。
「まず、お前が言っていることは半分正しくて、半分間違ってる。これは色々経験してきた四十前のおっさんだからこそ言えるアドバイスでもある」
苦手だと言ったが、手渡されたからには飲むしかあるまい。真田は砂糖を二本とクリームを二個入れてまるでカフェオレのように苦みを消し、コーヒーカップから一口コーヒーを口に含んだ。
「人生、この瞬間に賭けなくては、と思う瞬間はある。ある人にとってはそれが受験かもしれないし、部活の試合かもしれない。何かの資格試験かもしれないし、結婚のプロポーズかもしれない。人それぞれなんだよ、そのポイントとタイミングは」
真田は真剣な顔つきで話を聞いていたが、コーヒーが想像よりも美味しかったのか、一瞬目を丸くしてコーヒーカップに目線を落とした。こういう人なつっこいところが、高橋が真田を憎めないところでもあった。この男には妙に人を惹き付ける魅力がある。
「それが厄介なことに、上手くいかないと後悔になる。よくやって後悔するのとやらずに後悔するのでは、やって後悔した方が良い、みたいなこと聞くだろ?あれは実は正しくないと思ってる。『これだ!』と思って賭けたことが失敗に終わると、そのダメージってかなり大きいんだ。その後はどうも冷めた人間になっちまう。自分があれほどに熱意を持ってやったことが否定されちまうんだからな。またやってもどうせ上手くいかないんだろうって斜に構えちまうんだよ」
「センセイはそんな経験があるんですか?」
少し間を空けて、真田が問うてくる。
「あぁ。俺は実は検事になりたかったんだ。ガキの頃に世話になってな。絶対弱い立場の人を救う、あんな検事さんになるんだって、必死に勉強したさ」
真田はコーヒーカップを両手で握って興味津々に続きを聞こうとしている。
「ただ、大学受験に失敗したんだよなぁ。ウチは裕福じゃなかったから、浪人もできなくてな。この髪型も実はその検事さんの髪型に憧れてのことなんだ。これは絶対に他の生徒には言うなよ」
真田はそれを聞くと少年のようにはにかんだ。
「でも、センセイは今の自分、嫌いじゃないでしょ?」
たまに生徒はドキッとするようなストレートな感想を力一杯投げ込んでくる時がある。
「あぁ。そういう意味じゃ、間違ってなかったとは思うな。ただ、あの時もっとこうしておけば、みたいな後悔はつきまとうものだとは思うぞ」
真田はもう一口コーヒーを飲むとマグカップを机に置き、腕組みをして考え始めた。
「正直、悩んでいるんだったら、止める気だったさ。ただお前はもう吹っ切れてるだろ?自分と、音楽と、散々向き合ったはずだ。それは嫌いになるほどにな。それでも湧き上がってくるものがあって、ここにいる。そうだろ?」
真田は静かに頷いた。もう答えは出ている。自堕落に落ちぶれたり、なんとなく惰性で学校に行きたくなくなったりで辞めるのではない。己の決めた目標、いや、叶うか叶わないかわからない夢のようなものに対して、全力で情熱を注ごうとしている人間を止める権限が教師のどこにあるというのか。
「ただ、ここまで来たらもう引き下がれないぞ。とことん突き詰めろ。学歴ってのは案外馬鹿にはできない代物だからな」
高橋はわざと語気を強めた。これは、まがいもない事実だからだ。
「それは分かってるつもりです。親父にもさんざん言われました。でも、『今』が欲しいんです。たぶん、ここを逃すと俺一生後悔する気がしてます」
「そうか。わかった。ただ・・・そうだな。うん。わかったよ。この時期に浅葱西から自主であろうと退学者を出すって意味、お前わかってるな?」
「はい。ホントにすんません」
「わかったよ。頭はいくらでも下げてやる。ただ、約束してくれNステに出てくれ。自慢させてくれ」
「何で大人って音楽って言ったらすぐNステか紅白なんですか?ホント最近ウンザリしてるんですけど」
真田は本当に嫌そうな顔をしている。
「あまり詳しくないからな。その二つだったら絶対見れるし、聴けるだろ?多分そういう理由だ。細かいことは考えるな」
高橋は、わざと大袈裟に笑って見せた。本当に良かったんだろうか?受験校の選定や進路決定の際にいつも自問自答するのだが、その時にいつも自分の力のなさを痛感させられる。その生徒にとっての「正解」や「不正解」は生徒自身でしか決めることが出来ない。定規のようなもので計ることも出来なければ、外から見て判断することも出来ない。心の中までは覗けない。
「でも、俺センセイみたいに美味しいコーヒーを淹れれるような大人、カッコイイと思いました。俺も将来こんなコーヒー淹れるようになりたいです。いや、一緒に飲むコーヒーが美味しいと思ってもらえるような、大人かな?まぁいいや。また、飲みに来てもいいですか?」
真田は空になったマグカップを返しながらそう言ってきた。思わず目頭が熱くなりそうになり、喉のあたりを何かがグッと押してくる。
「あぁ。お前はちょっと他の奴らより、卒業が早くなっただけだ。卒業式には顔出せよ」