サウダーデ
三月 第二週
「そっか。さっきのも、奏には伝えとくね」
曇っていた真田の表情がパッと晴れる。光にはまるで真田に犬のような尻尾がついていて、それが左右にブンブンと振られている様が見えた気がした。
「ありがとう。時任っちのこと、よろしくね」
二人にそれ以上の言葉は必要なかった。
真田と別れた後、光はすぐに拓巳に連絡を取り、翌日奏の家に訪問する段取りを整えた。日曜日は受験勉強のためにコンビニのバイトが必ず休みだということも、二人の思いきった行動を手伝った。
「俺らで奏の家に行くのっていつぶりだ?小学生の頃か?」
奏の家に向かう途中、拓巳は懐かしげに光に問いかけてきた。
「・・・かな?あんまり奏って家で集まりたがらないよね?」
「俺はそうでもないけどな?この前だってゲームしたばっかだぞ?」
「私なんてここに来るの小学生の時以来よ。やっぱり男の子と女の子じゃ違うものなのかもね」
「自分は家に上げてるくせに?」
「ちょっと!あれは理由があったでしょ!」
拓巳と軽口をたたき合い、いよいよインターホンの前に辿りつく。
「ね、ねぇちょっと、拓巳がピンポン押してよ」
「何でだよ?光が用事あるんだろ?」
「いや、ちょっと、今なんて言ったら良いかわかんなくて・・・」
「ん?とりあえず、話がしたいんだよな?」
「そう。結局、あの後謝れてもいないし、一回ちゃんと話がしたい」
「奏の家でか?それともどっか外でか?」
「落ち着いて話せればどこでも良いけど、騒がしいところは、ちょっと、かな」
「おっけ。わかったよ」
ふう、と拓巳はひとつ息を吐く。白い息が拓巳のニット帽越しに舞い上がっていくのが見える。心なしか、拓巳の背中には緊張が走っているようだった。その緊張は、例えば奏の母が出てきたらどうしようか、などではなく、奏自身の今を案じているということを光は肌で感じていた。
『ピンポーン』
意を決した拓巳が右手の人差し指でボタンに触れると、無機質な機械音が玄関先に響く。光は隣の家のインターホンに備え付けられたカメラが目に入った。鈍く光るそれが、誰かの目であるようにも見え、まるで見られているような感覚になり、あまり居心地が良くなかった。
「出ねぇな。出かけてんのか?」
『ピンポーン』
もう一度インターホンが鳴る。留守を覚悟したその時だった。
「あぁ、なんだ拓巳かよ。風呂入ってて焦って出てきて損したぜ」
「はっ!心配して日曜の朝っぱらからわざわざ家にまで出向いてやったのに、いきなり憎まれ口叩かれるのかよ」
拓巳は呆れながら、腰に手を当てていたが、背中から感じる緊張感がふっと緩むのを感じた。
「ちなみにもう一人スペシャルゲストが居ます。誰でしょう?」
ちょうどインターホンのカメラからは死角になっており、恐らく奏からは光の姿はまだ見えていない。
「まさか、加奈ちゃんじゃないよな・・・?」
奏の声色はやけにバツが悪そうだった。
「ん?加奈だったら、ダメなのか?」
拓巳はニヤニヤしている。
「お前、絶対何があったか知ってておちょくってるだろ?」
「まぁまぁ、落ち着いて落ち着いて、で、だーれでしょ?」
「加奈ちゃんじゃないなら、どうせ光ってとこか?」
「ねぇ!どうせってどういうこと!?」
光は思わず我慢ならず、まだカメラには写っていないとわかっていながら、大声を上げた。
「いや、なんて言うか、言葉のアヤだよ」
「本当に信じらんない」
「で、不登校ボーイは風呂入って何する予定だったんだ?俺らは真冬の外に居て死ぬほど寒いんだが?」
「別に、今日は何の予定もねぇよ。上がってくか?」
「あぁ。そうさせてもらえるか?」
「服着るから待っとけよ」
「良くなったらカギ開けてくれ」
ピッという音が鳴り、奏はインターホンから離れたようだ。奏の今日の予定がないという発言が、光にはどうしても引っかかった。普段の奏ならば、絶対に勉強する、というはずだ。やはり真田の言う通り、受験自体をしないつもりなのだろうか?なんとか、受験だけでも、これはきっと拓巳も同じ気持ちのはずだった。
しばらくしてドアが開き、二人は家の中へと招かれた。
「お邪魔しまーす。あれ?親は?」
「今日も仕事。休日出勤ってやつ」
「相変わらず忙しいのな」
拓巳は靴を脱ぐなり、ずいずいと無遠慮に家の奥へと進んでいった。その様はまさに勝手知ったると言った具合で、二人の関係性の強さを感じた。
「さ、早速始めようぜ」
拓巳は奏の部屋に入るとソファにドカッと腰をかけた。奏は拓巳に続く形で部屋に入ると静かに浅く、自分のベッドに腰をかけた。光は久しぶりに入る奏の部屋に戸惑っており、どこに座ろうかと迷っていたが、拓巳は自分の隣に座ることを促すように、ソファの上に置いてあったクッションを二度ポンポンと叩いた。光は置いてあったクッションを膝の上に置き、隅の方にちょこんと腰掛けた。
「まずは、この前は、ゴメン。よくよく考えたら色々無神経だったなって。まず謝りたくて」
光は素直に頭を下げた。まずは自分の心の中にある、すっきりしない靄のようなものを晴らし、あくまで対等に、フラットに話し合いたかった。
「あぁ俺も悪かった。なんか変にむきになっちゃってさ。それで、今日は二人に聞いて欲しい話があるんだ。本当は週明けにちゃんと学校で話そうと思ってたんだけどさ」
「その前に、俺らに何か言うこと、あるんじゃないか?」
拓巳は腕組みをしながら難しそうな顔をしている。
「あぁ。悪かった、ごめん。連絡もろくに返してなかったり、学校にも行かなかったり、心配かけたな。悪かった」
「本当だよ!どれだけ心配したと思ってるの?連絡取れないって思ってたら、急に真田君から連絡来るし」
「マジ?真田が光に?それは、意外すぎる。ごめん」
「加奈もめちゃくちゃ心配してたぞ」
「そうだよな。ごめん」
「で?18になった途端にメンヘラ化しちゃった時任奏君は今回どうしちゃったのかな?」
「拓巳、お前もっと他に言い方あんだろ。まぁ、結論から言うと、しばらく俺は『何もしないこと』を『しよう』と思う。意味わかんないだろ?でも、一旦リセットしたいんだ」
「ん?どういうこと?何もしないって?」
光は奏の言っていることが全くといって良いほどわからなかった。
「もちろん、普通に生活する。けど、頑張って本当に何をしたいか探す、とか、具体的に目標がある訳でもないのに、なんか頑張る、みたいなもんを一回辞めてみようと思ってな」
「確かに最近のお前は見えない何かに追われてるみたいだったもんな」
拓巳は未だに腕組みをしながら奏の話を聞いていた。
「そう。だから一旦、全部空っぽにしたいんだ。その上で、今何をすべきか、じゃなくて何をやりたいか、を優先してみたい」
「え?じゃあ慶王はどうするの?そこを目標に一生懸命頑張ってたじゃない」
「光、そこ、なんだよ。結局慶王もその『何か』を見つける為の手段であって、慶王自体が目的や目標ではないよな?一回、自分を追い込んでみて、そこで見える景色があって、そしたらその『何か』が見つかるんじゃないかって、そういう考えだったんだよ」
「うん。言ってることはわかるよ。でも奏はそう言って頑張ってたじゃない」
「それが、たぶん正しいアプローチじゃないんだよ。どちらかというと、それはやりたいことじゃなくて、やらなきゃいけないことになってたんだよ」
「無意識のうちに、そうなってたって事か?」
拓巳は硬い表情で腕組みしたままだったが、眉がぴくりと動いた。
「あぁ。焦りもあっただろうな。焦る必要とか、なかったのにな」
「でも、せっかく頑張ってきたんだし、受けるだけ受けたら良いのに・・・本当に受けずに終わっちゃうの?」
「俺も光と同意見だ。行く、行かないに関係なく、自分がやってきた事の結果としてそれが成功したのか、失敗したのかはきちんと答えを出した方が良いと思うぞ」
「ちょっと待て、いつ俺が慶王受けるのやめるって言ったか?」
「え?だって、真田君に受けるのやめるって言ってなかった?」
「えっと・・・」
奏は頭をポリポリと掻きながら苦笑いを浮かべている。
「光、まず俺は慶王受けないなんて言ってない。『行くかどうかを考える』って言ったんだ」
「へ?そうだったの」
「あぁ。メッセージの方にも、ちゃんとそう書いてる。全く、真田と光のコンビだろ?早とちりとか勘違いとか絶対起こる組み合わせじゃないか。勘弁してくれよ」
「ってことは、奏、お前、考えてた事っていうのは・・・」
「あぁ。そのまさかだ。受かってから考えりゃいい」
奏の右側の口角のみがあがり、特有のニヤリとした顔を見せる。奏が自信のあるときに見せる癖で、光は久しぶりにその表情を見た気がした。そしてそのことが妙に嬉しかった。拓巳も同じ事を感じたに違いない。組まれていた腕はほどかれ、まるで笑みを隠すように、右手は口あたりに添えられていた。
「やっとらしくなってきたじゃねぇか」
拓巳は握り拳を作った左手を奏の方に差し出す。奏は何も言わず、同じく左手の拳を合わせた。その行為が、試合中奏がピンチを凌いだときや、拓巳がタイムリーヒットを打ったときなど、二人の中で『アガる』ことが起こったときに行うルーティーンだということを光は知っていた。その姿を見ると、光にはこみ上げてくるものがあった。
「お帰り、奏」
「あ?俺はどこにも行ってねぇよ。っていうか何で泣きそうになってんだよ」
「うるさい、バカ」
「あーぁ。こうなった光がめんどくさいのは知ってるよな?俺は知らないからなぁ」
拓巳はそう言うとそっぽを向いてしまった。
「で?あんたまだ言わなきゃいけないことあるでしょ?」
「え、何?全然わかんないんだけど」
「しらばっくれるんじゃないよ!千絵ちゃんのことに決まってるでしょ!」
「えー。それ言わなきゃいけないのかよ・・・」
拓巳は右手で口を覆っているもののにやけが止まらないといったところだ。
「結論から言うと、振られた」
たまらず、拓巳はブッと吹き出してしまった。
「ほら、絶対加奈ちゃんからいろいろ聞いてるはずだもん。だから言いたくなかったんだよ」
「いや、俺も詳しくは聞いてないんだ。結果しか。でも、面白すぎるだろ。何でお前告白されてんのに振られてんだよ。普通お前が振ったとかだろ?」
拓巳はもはや腹を抱えてゲラゲラと笑っている。
「いや、そうなんだけどさ。俺が話あるって、呼び出そうと思ったら、まさかの呼び出しくらっちゃってさ」
「え?向こうから連絡が来たって事?」
「そうじゃなくて、会う約束を取り付けようと思ったら、向こうからしたら、俺に気を遣って連絡してきてなかったみたいなんだけど、『連絡してくるって事は、今大丈夫なんじゃん』って事になったらしくてな。どうも一ヶ月前ぐらいから、タイミングを見計らってたみたいなんだけど」
「そしたら?どうしたんだって?」
続きを聞きたくてたまらない拓巳はもはや身を乗り出して聞いている。
「『勘違いでした』ってさ」
その言葉を聞いた瞬間、光も拓巳も吹き出してしまった。
「え?ちょっと待って、どういうこと?だって、奏は慶王に進んだら離ればなれになっちゃうとか結構真剣に考えてたじゃん。千絵ちゃんは違ったって事?」
「いや、そうじゃないんだ。千絵は千絵でネイルの方が忙しいというか、大詰めみたいで、そこに一生懸命になればなるほど『恋愛なんてしてる暇無い!』ってなったらしいんだ。だから『忘れて下さい』って」
「お前それ盛大に振られてるじゃねぇか」
拓巳は大笑いしながら、奏の背中をばしばしと叩いている。
「いや、だからお前、加奈ちゃんから聞いてただろ?」
「いや、俺は『結局くっつかなかったらしいよ』としか聞いてない。こんなに生々しくて面白く仕上がってるなんて思いもしなかったぜ」
確かに、光にとっても千絵の言動は予想外だったものの、千絵が言いたいこともよくわかった。光自身が奏に対しての気持ちに気付いたのも、高校バスケを引退してからだった。つまり、女の子にとって『それどころでない』状態というものは起こりえるシチュエーションなのだ。
「でも、それだけ千絵ちゃんは今自分のことに対して本気だって事でしょ?きっと一杯悩んで、本当に後悔しないかとか、色々考えての結果だと思う。話したこととか無いけど、年下でそこまで覚悟決めて頑張れるのって、かっこいいな。なんか上手く言えないけど応援したいって思う」