サウダーデ

三月 第一週

サウダーデ

 

思ったよりも涙は流れなかった。もうこの体育館でボールをつくこともシュートを打つこともなくなるのか、そう考えると確かにこみ上げるものはあった。けれど、周りの生徒が人目もはばからず涙する姿を目にすると、心なしか白けた気持ちになってしまい、涙は出てこなかった。中学校の卒業式では、小、中と9年間一緒に過ごした同級生と、高校進学という言わば別々の道を進むことになるという現実によって涙が溢れてきたのだが、高校の同級生ともなると少し話が違った。言い方は悪くなるが、所詮初めから定められた3年間を過ごしたにすぎない。もちろん、バスケ部の3年生や後輩達も同じくくりかと言われればそうではなく、彼女たちは他の生徒達とは全く異なる感情を抱く特別な存在だ。しかし、光にとってはその割合は中学校の頃に比べれば、ずっと少なくなってしまうのだった。自分は浅葱西という学校に思い入れがあるのか?そう考えると、いや、そうではないよな、という考えが先に来てしまうのだった。

思い返せばこの一ヶ月、光を取り巻く状況は大きく変わっていった。まず、三田村と奏との会話があった後、奏はしばらく学校に姿を見せなかった。担任の高橋曰く、受験勉強に専念する、とのことだったが、光はその言葉を素直に信じることが出来なかった。高橋が奏の様子を光と拓巳に知らせた数日後、光に真田から連絡が入った。クラスのグループメッセージから連絡先を知ったのだろうが、直接連絡先の交換をしていなかった真田から、このタイミングで連絡が来たことに、光は虫の知らせというか、少しの不安を覚えた。

『ゴメン、クラスのグループから連絡先追加した!俺、夏まで学校にいた真田!覚えてる?』

『真田くん?いきなりどうしたの?』

『ゴメン!三ツ村じゃなきゃ出来ない相談があるんだけど大丈夫?』

『私じゃなきゃ出来ない相談?全然掴めないんだけど、どうしたの?』

『時任っちのことなんだけど、今学校来てないよね?』

光はまさか、と思った。自分にも、ましてや拓巳にも連絡を返さず、真田と連絡を取り合っているということは、思い当たる節はひとつ。

『もしかして、奏進学諦めようとしてる?』

『うん。諦める、とは違うんだけど、上手く説明できないな。とにかく昨日ぐらいから相談受けてて、どうすれば良いかなって・・・』

『わかった。真田君、今どこにいる?』

連絡が来たのがちょうど土曜日だったこともあり、特に予定が無かった光は真田に直接話を聞こうとした。慶王大の入試まで残り約2週間。残された時間はあまりなかった。

『今バイトの休憩中で、今日は23時ぐらいまではバイトがある!今日は難しいかも、ゴメン』

『私は真田君のバイト終わった後でも大丈夫なんだけど、どうかな?』

『マジか・・・。でも時任っちの為だもんね。わかった。遅いけど大丈夫?』

『私は大丈夫。真田君がいいなら、なんだけど』

『俺は大丈夫だよ!明日のスタジオは昼からだし!駅前のファミレスでいい?』

『わかった!ありがと!23:15にファミレスでいいかな?』

『大丈夫!ごめんね!』

光は、真田の見た目と反した物腰の柔らかさに、多少の驚きを覚えつつも、真っ先に奏の事を案じた。今の奏では、三田村の言葉は良い意味でも悪い意味でも大きく影響を与えかねないだけに、ようやく奏の中で固まった慶王というひとつの目標さえもなくなってしまうことを危惧した。時計はジリジリとしか進まず、なかなか23時になってくれない。逸る気持ちと裏腹にいつもより余計にゆっくりと時間が進んでいるような気がした。

ロードワーク以外で初めてこの時間の浅葱を出歩いた光は、中心部や繁華街が自分の想像していたよりも賑やかだったことに気付く。今まで浅葱は何となく『田舎』というイメージがあったが、23時の時点でも人通りがそれなりにあり、飲食店を中心にまだまだ賑わっている。待ち合わせのファミレスに22時半には到着していた光は、現役時代あまり飲むことがなかった炭酸入りのジュースをドリンクバーで飲みながら、行き交う人々の様子を観察していた。正月に経験した東京の人混みとは密度もスピードも異なりはしたが、自分が知らない人達が蠢いているということに変わりはなく、なんとなくその事実に寂しさを感じていた。23時を少し過ぎた頃、早めにバイトが終わったと事前に連絡があった真田がファミレスに姿を現した。

「ゴメン!待った?」

カチューシャで長い髪をまとめた真田が、ボックス席の向かいへと腰掛ける。身につけたアクセサリーは少しロックテイストとでも言えば良いのだろうか、同年代の男の子よりシックで細身な装いの真田は半年前と比べて大きく垢抜けた印象を受ける。

「全然、むしろバイト終わりにごめん」

「腹減っちゃって、何か頼んでも良い?」

「全然気にしないで!なんなら奢るし!」

「何で高校生に奢られなきゃなんないの?」

真田は一瞬ムッとした表情を浮かべた。

「進学祝いって結構もらえるんだ。知ってた?」

が、すぐに笑顔になって、光の提案を呑んだようだ。真田は呼び出しのベルを押すと、チキンドリアとドリンクバーを注文した。料理が運ばれてくる間、二人は身の上話を済ませ、本題は真田の食事が終わってからしようという段取りになった。思えば、初めて奏と拓巳以外の男の子が目の前でご飯を食べるのを見たが、二人よりかなり細身である真田の方が食事が早い事に光は驚いた。丁寧に「ごちそうさまでした」と手を合わせてお辞儀をした真田が一呼吸置いて、本題に入って良いかを合図する。

「それで、なんだけど」

「うん。奏がどうしたの?」

「一昨日だったかな?いきなり連絡が来たんだ。『元気?』って」

実際に液晶に表示されている奏からのメッセージを光にも見えるように指し示しながら、真田は続ける。

「そこで最初は何でもないような他愛のない話をしてたんだけどさ、急に『学校じゃ学べないものって何だと思う?』って聞かれてさ、正直、バイトだって時任っちのほうが長くやってるしさ、『社会のことかなぁ?』って曖昧に返したんだよね」

「うん。それで?」

「そしたらさ、『学校やめて良かったと思う?』って聞かれたからさ、『俺は音楽に集中出来てるし、退路を断ってやってる分、かなり毎日は充実してるよ』って返したんだ。そしたらさ、『お前には音楽があって良いよな』って、来てさ。俺バイトだったから、返事できなくて、そしたらその次にこう来てた」

真田に見せられた液晶にはこう書いてあった。

 

『大学に行って、やりたいことを探そうと思ったけど、やっぱり、真田で言うところの音楽みたいなもの、探してから次どうするか決めるわ。今日は、ありがとうな』

 

「俺の中では全然解決してないしさ!いきなりどうしたんだよって思ってさ、バイト終わって携帯確認してすぐメッセージ送ったんだけど、そっから返事が来ないんだ。だから三ツ村ならなんとかしてくれるかな?って。ほら、磯部ってすこしとっかかりにくいだろ?」

何となく、予想はしていたものの、光は二重の意味でショックを受けた。まずは奏が拓巳でも自分でもなく、真田に相談したこと。二つ目は、いよいよ本格的に奏が拓巳と自分とは別の道を歩もうとしていることだった。

「そっか。そういうことだったんだ。でもさ、残念なんだけど、拓巳にも私にも、真田君よりも少ない情報しか入ってきてないっていうか、全く連絡来てないんだよね」

「え?マジで?」

「うん。マジ。たぶんね、なんか気まずいっていうか、恥ずかしいっていうか、私たちには言いにくかったんだと思う。」

「何で?」

「いや、拓巳も私も東京に行くことが決まってるからさ、それをこのタイミングで大きく方向転換するってことじゃない?だから」

「え?それっておかしくない?だって自分の人生だろ?他人の定規あてて話すること自体が違うでしょ?」

「ちょ、ちょっと待って。じゃあ何で真田君は納得いってないの?」

「そんなの決まってるじゃん!何で俺に相談してきたのかもわからないし、なに勝手に自己解決して終わってんの!?ってことだよ!」

光は真田のこの某海賊漫画の主人公のような真っ直ぐさに胃もたれがしそうだった。が、真田が言っていることもわかる。何故、そこで自分や拓巳でなく真田を選び、尚且つ、大学に進学せずにまずは自分の人生の目標を定めることを優先したのか、というのは奏の中では完結している話なのかもしれないが、外側からはどうしても見えづらかった。

「それはたぶん奏しかわからないんだろうけど・・・。でもどちらにせよ直接奏から話聞いてみないと解らないよね」

「うん。そうだな。でも、俺にも慶王できれば受けて欲しいって気持ちはあるんだよ。実は時任っちとはちょくちょく連絡取っててさ、時任っちが普段どれだけ頑張ってるかは、何となくわかってるつもりだからさ。俺は、どうであれ一回入試の結果がどうなのかっていうのは、はっきりさせた方が良いと思う。そこをうやむやにしちゃうと結局自分が費やしてきた努力とか時間とか全部無意味な物になっちゃうからさ」

遠くを見つめながら話す真田の言葉には、まるで過去に自身が似たような経験をしてきているかのような、妙な説得力があった。光には奏にはそうなって欲しくないという、真田の願いが込められているように感じた。

「真田君は、そういう経験、あるの?」

「まぁ、つい最近ね。音楽のことなんだけど、ちょっと、ね」

恐らく、音楽に詳しくない自分に合わせて詳しくは語らなかったと思うが、それ以上にこの時真田が見せる横顔には、この細身の男の子が抱える事の重さや繊細さ、音楽で生きていくという覚悟の重さのようなものが詰まっていて、光はその、何と名前を付ければ良いかわからない表情にその一端を見たような気がした。三田村の言葉を借りれば、十分に真田も『バケモン』の一人だ。光は、恐らくこれ以上踏み込んではいけないものだと察し、出来るだけシンプルに奏と真田の橋渡しをしようと決意した。そして、それを誠心誠意真田に伝えようと思った。