月に叢雲、花に風

七月 第一週

月に叢雲、花に風

 汗が光る首筋をジリジリと焦がすように照りつける太陽は、すでに梅雨のものとは違う表情を見せていた。盆地である浅葱市の梅雨はジメジメと長引くことが多かったが、今年は例年より早く明けることをテレビが告げていた。制服に袖を通し、シャツのボタンを留めながら液晶が告げた最高気温は三十一度、奏は自然とため息を吐いていた。シャツのボタンを留め終わるや否や、液晶は奏を急かしてきた。
『あと5分で駅に着くよ?今どこ?』
奏は汗をかいたプラスチックのカップに入ったアイスコーヒーを一気に流し込み
『今家出たとこ』
と光に返事を出した。自転車に跨がりペダルを踏み込むと、盆地特有の蒸した空気と、まだ登りきっていないのに刺すように照らす太陽に、じわっと汗が滲む。奏は夏が苦手だった。
「おはよー。奏、汗だくじゃん。どうしたの?」
駅に着くと光が首から下げた携帯用扇風機を顔に当てていた。
「そりゃ家から全力で自転車漕いできたらこうなるだろ」
奏は肩で息をしている
「奏が計画性ないのが悪くない?」
光は不思議そうな顔をしている。
「じゃあ、待ち合わせ時間とかいつ家出たとか教えろよな。いつもあと何分で着くとかしか連絡してこないのに、待ち合わせに合わせられる方が奇跡だぞ?」
「だって奏の方が駅に近いし、いつも家から五分で来るでしょ?」
「だーかーらー!合わせてやってるだけだって!」
二人のやりとりに通行人の何人かは笑いを堪えていた。光は良く天然だと言われていたが、奏や拓巳に言わせればそんなに可愛いものではなかった。拓巳はよく『光の中には違う標準時が設定されている』と光のズレ具合を表現していたが、奏はその表現を妙に気に入ってしまっていた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。それより!いよいよ準決勝だね」
「あぁ。あと二勝で拓巳が世間のヒーローになっちまうな」
「何言ってんのよ。それよりも藤村くんでしょ?まだ一点も取られてないって、相当すごいんでしょ?」
夏の甲子園予選、二年生エースの藤村は、初戦から続く県の連続無失点記録を更新し続けていた。
「そうだな。でも、今日の相手は一筋縄じゃいかないぜ」
「この前の公式戦で負けてるから?」
準決勝の相手は朝倉高校、藤村がストレートにこだわり、前回の公式戦で打ち砕かれた相手で、現在予選を準決勝まで全てコールド勝ちで勝ち上がっている台風の目だった。
「それもそうだけど、やっぱり拓巳が気になるんだよな」
奏は明後日の方向をみながらそう言ったが、その目は確かに何かを捉えて離さないような力強さを持っていた。
「ふーん。でも奏がそう思うんなら実際そうなんだろうね。ウチらは応援することしかできないしね」
光は顎をくいと市民球場の方に向けて奏に『さぁ、行こう』とでも言いたげだった。
「あぁ」
奏は乾いた声で返事をしたあと、ギュッと自転車のハンドルを握りしめた。

 奏の予感は杞憂に終わるだろうと踏んでいるのか、それとも単純に甲子園に手が届きそうな野球部の試合を観るのが楽しみだったのか、光の自転車は小気味よくリズムを刻んでいた。
「しっかし暑いねー。まだ梅雨明けしてないんでしょ?なんで?」
光は振り返って奏に問うた。ここにセミの声がシャワーのように響けば夏だと言われても誰も疑わないだろう。
「俺に聞くなよ。ウィキペディアじゃないんだから」
前をゆく光に声を張り上げて伝える。
「え?何だって?聞こえなーい」
奏はふるふると頭を横に振り苦笑いを浮かべている。奏はふと、半月前のことを思い出していた—。

 高校総体の県予選、浅葱西高女子バスケ部は、あと二分三十六秒のあいだ、五点のリードを守り切れば初のインターハイ出場が決まっていた。残り二分十八秒でセンターの鈴木心春が五ファウルで退場。なんとか持ち堪えていた浅葱西のディフェンスはインサイドから崩れていった。残り十八秒、浅葱西の一点ビハインドで浅葱西ボール。十八秒を使い切り、逆転ゴールを決めれば、浅葱西は勝っていた。ガードの光の最後の選択は光自身のドライブ。残り二秒を残したところでボールは無情にもリングの上で二回跳ね、コートに落ちた。リバウンドをインターハイ常連の明和第一が納めたところでブザーが鳴り響き、光の高校バスケは終わった。
 光にはその日一番当たっていた一年の近藤結美、三年生のポイントゲッターの白州沙耶香の選択肢もあった。ただ、なんとなく奏には、光が誰にも背負わせたくなかったんじゃないかと感じていた。恐らく一番全国の切符を掴みやすい選択肢は近藤結美だった。でも光はそれを選ばなかった。もし、近藤が外してしまったら?もし、プレッシャーを感じて白州がシュートを打てなかったら?色んなことが走馬灯のように頭の中を駆け巡ったはずだ。その上で全責任を背負い込んで、一番難しい選択肢であった自分のドライブを選んだ。ざわついた場内から出た自己中心的だという意見や、自滅したという意見は、浅葱西の各選手の表情を見れば真実とはそぐわないことだと容易に窺い知れた。まるで光にだけスポットライトが当たっているように、敗者のコートには小さな小さな円が出来た。中心にいる背番号4以外の選手が一斉に中心に押し寄せ、大号泣していた。背番号4はボールが通過することを拒んだリングを見つめ、下唇を噛みながら泣きながら笑っていた。光の夏が終わった、光のチームが終わった瞬間だった。

 あの時からずっとどこか抜け殻のような、心ここにあらずな光の姿を見ていた奏には、今日の光はどこか二年生の頃までの天真爛漫な光に見えたー。

 市民球場に着くと事実上の決勝戦とも言われている好カードに各校の応援団の人数も多く、地方予選特有の熱を帯びたざわつきがグラウンドを包み込んでいた。
「両方とも吹奏楽部が応援に来てるね」
まるで遊園地に遊びに来ているかのように光は目を輝かせている。アップをしている両校の選手を見ながら奏達は三塁側のベンチの真上、中段あたりの席に腰を下ろした。
「今日も藤村君が先発なんだね」
「まぁ、当然っちゃあ当然だな。替える理由がない」
試合前の調整を行なっている背番号10の背中は、数ヶ月前と比べてひと回り大きくなっているような気さえする。
「唐澤君のピッチングも見たかったなぁ」
光が残念そうにそう漏らしたことは奏にとってかなり意外だった。
「なんでこのタイミングで唐澤なんだよ?」
「だって、最後の大会、唐澤君のおかげで頑張れたようなもんだし」
「え?なに?お前ら仲よかったの?」
奏は目を丸くしている。
「そうじゃないよ。でもあの試合見てから、背中で引っ張れるようなキャプテンになりたいって思って、たった二ヶ月かもしれないけど本気で部活やってみたんだ」
「本当に影響されやすいやつだな」
言葉とは裏腹に奏は嬉しそうだった。
「でも気付いたんだ。きっとね、明和第一はインターハイに出ることを目標にしてたんじゃない」
奏は光の言葉の真意を掴みかねていた。一瞬の沈黙の後、感情を押し殺したように光に問いかける。
「は?どういうことだよ。インターハイが目標じゃないって、じゃあなんで本気で全国目指してたお前らが負けるんだよ」
「そういうことを言いたいんじゃないよ」
光はゆるゆると笑っているが、その目は全国予選を戦う前のように本気だった。
「たぶん、明和第一は全国で勝つこと、なんなら全国制覇を目標にしてたんだと思う」
光から出た予想外の言葉に、奏は後頭部を金属バットで殴り付けられたような感覚に陥った。ゆっくりと話す光の口調とは裏腹に奏の心臓は早鐘のように鳴っている。
「きっと拓巳たちもそうだよ。甲子園で勝つために、春のリベンジをする為に一生懸命練習してたんだと思うの」
「でも、そんなの全国行けなかったら元も子もないだろ?」
「だから負けないんだよ。慢心でもなんでもなく、自分達が勝利に値するって知ってるから、負けないんだよ。そこまでの準備をしてきてるから、そう思えるんだよ。悔しいけど、その差を感じざるを得なかったかもな」