月に叢雲、花に風

七月 第二週

両校の整列と試合前の挨拶が終わり、浅葱西の選手達が焼けた黒土の上に散っていく。
「きっと拓巳たちは大丈夫だよ。試合前の明和の選手たちと同じ顔してるもん」
光はそういうと、奏に笑いかけた。そこには奏が知らない光が宿っているようだった。

 
 電光掲示板に150km/h近い球速が表示される度に球場がざわつく。藤村のピッチングは圧巻そのものだった。ベンチから投球練習になかなか出てこない唐澤の様子からもその事が伝わっていた。
「凄いね。なんか前の試合とは別人みたい」
六回の表が終わった時、ぽつりと光が呟く。
「ピッチャーは抑えることで自信が深まってくもんなんだよ。藤村のやつ、この夏で化けやがったな」
ため息を一つついたあと奏はマウンドをゆっくり下りる藤村を見つめ、そう言ったきり黙ってしまった。グラウンドでは三回目の打席に向かう拓巳が素振りを繰り返している。
「これって、ウチが有利な状況なの?」
光は一度グラウンドから目を離し、奏の方を向き直って問いかけた。
「まぁ、藤村がこのピッチングを続ければ、負けはしないよな」
スコアボードにはきれいに0が十一個並んでいた。浅葱西は藤村の好投もあり、守りは不安が無かったが、攻撃はあと一本が出ず見ている者に焦ったさが募る結果になっていた。
「んー。これって結構ヤバい雰囲気だったりする?」
「お前は時々答えにくい質問をするよな」
奏は苦笑いを浮かべながら、じっとグラウンドを見つめたまま続ける。
「どっちも流れを掴みきれてないんだよ。我慢比べみたいなもんだ。先にミスが出たりすると一気に崩れかねない」
拓巳が三球目を打ち上げ、三塁手がガッチリと掴んだ。
「なんか、相手のピッチャーが唐澤くんに見えるね」
奏は光の方をチラリと見ると苦笑いを浮かべながら
「ヤなこと言うね」
とだけ言った。
 

 八回の表。四巡目になり徐々にタイミングが合ってきた朝倉打線が遂に藤村を捉える。先頭から連続ヒットでノーアウト一・二塁、四番バッターを迎える場面で拓巳がマウンドに駆け寄った。
「流石の藤村くんでも打たれることあるんだね」
光の純粋な感想に、普段の奏なら軽口を叩くところだったが、不思議と今日の藤村の出来と急に相手打線に捉まりはじめたことから、奏はすんなりとその言葉を受け入れた。
「そうだな。いいタイミングで拓巳が行ってくれたな」
二言、三言言葉を交わした後、拓巳はポンと藤村の肩を叩いてポジションに戻った。この回の先頭バッターにクリーンヒットを打たれてからと言うもの、唐澤の投球練習は急ピッチで進んでいた。
 迎えた初球、ダブルスチールを仕掛けてきた朝倉の動きをあらかじめ読んでいたかのように拓巳が三塁めがけて強肩を発揮し、ワンアウト二塁、一打先制を許すタイミングで投じた二球目、唐澤目がけて凄まじい打球が襲った。咄嗟に出したグローブにピッチャーライナーが収まり、飛び出したランナーが帰塁できずに浅葱西の八回表のピンチは無失点で幕を閉じた。
「危なかったね」
光と奏は顔を見合わせていた。
「どうやら運は拓巳達を味方してるみたいだぜ」
「今ので球場の雰囲気も少し変わった気がするね」
八回裏の浅葱西の攻撃はクリーンナップ—この試合の大きな山場を迎えていた。
「さぁ、先頭が出るか出ないかはでかいぞ」
そう奏が言った次の瞬間、快音が響き、あっという間に打球は右中間を真っ二つにしていた。先頭がツーベースヒットで出塁し、四番がライトフライに倒れ、ランナーは3塁へ進塁。打順は五番の拓巳。初回にも先制のチャンスで凡退している拓巳は、スタンドの奏達から観ても力が入っていた。
「力むなよ、拓巳」
願うように、自身に呟くように奏は握り拳を握ってバッターボックスに視線を送った。
「頑張れ、拓巳」
光は両手の掌をぎゅっと合わせて額に当てている。初球、相手投手も力んでいるのか、大きく外れて1ボール。二球目の甘く入った変化球を拓巳はフルスイングしたが、僅かに三塁線の外に切れ、1ボール1ストライク。
「スイングの音、聞こえるかと思ったよ」
光は目を丸くしている。
「力んでなかったら、仕留めてたかもしれないな」
奏の声はかすかに震えているようだった。相手ピッチャーが大きく息を吐いて、セットポジションについた次の瞬間、
「あっ」
奏は思わず三塁ランナーを指さしていた。拓巳はさっとバットを体の前に突きだし、ボールに覆い被さるようにバッターボックスの前方にさっと移動した。スタートを切っていた三塁ランナーと競争するようにピッチャーがマウンドを駆け下りてくる。拓巳のバットに当たり、勢いが完全に死んだ打球は二回跳ね、ピッチャーとキャッチャーを嘲笑うかのようにちょうど真ん中あたりで止まった。副キャプテンの強打の五番打者にスクイズ—まさに甲子園に向けて形振り構わない、浅葱西の執念が現れたようなシーンだった。
「ここでスクイズ。そして一発で決めるのかよ」
奏は思わず笑っていた。
「拓巳ってバント嫌いじゃなかった?そしてバント下手くそじゃなかったっけ?」
幼なじみの光ですらも完全に頭になかった作戦だった。