瞳に希望、唇には唄
十二月 第四週
ソファに腰掛けていた高橋は眼鏡をかけ直し、振り返るようにして奏に向き合った。ところどころ白髪が交じる頭髪に高橋の心労が見て取れるようだった。
「まぁ、立ち話もなんだ。掛けてくれ」
高橋はソファの反対側を掌で指し、奏に座るように促した。
「失礼します」
奏は高橋と自分が座るソファの間のコーヒーテーブルにコーヒーカップが二つ置かれていることに気がついた。奏側のコーヒーカップは一口分を残して置かれていたが、すでに湯気は立っておらず、しばらく時間が経っているようだった。どうやら先客が居たらしい。
「さっき、真田が来ててな」
「真田、ですか?」
高橋の口から出た懐かしい響きに奏は思わず驚いた。
「時任にとこれを預かったよ」
高橋の手には不織布のケースに入ったCDが握られていた。
「真田のバンドのCDだそうだ。よくわからんが、プリプロだとかいう行程で出来たもので、いわば世に出る曲の原型らしい。それを時任にも聴いて欲しいそうだ」
「あ、ありがとうございます」
奏は盤面に何も書かれていない、無地のCDを受け取った。
「なんで俺から手渡されるんだ?って顔をしてるな。まぁ無理もない。俺だってそう思ってる」
高橋は頭を掻きながら苦笑いを浮かべている。
「知っての通り、真田って奴は不器用だからな。一応入試が間近に迫ってる時任に気を遣ったつもりらしい。あいつなりの精一杯の配慮だ。汲んでやってくれ」
「確かに。なんかあいつらしいっすね」
奏はCDに視線を移した。何の変哲も無いただのCDだったが、先ほどの話を聞くとどうも真田の笑顔が浮かんでくるようだった。
「それで、結局どうするんだ?」
高橋はコーヒーを一口含んだ後に、奏に問うた。
「俺、慶王の経済学部をを受けようと思います」
二人しか居ない進路指導室が一瞬静寂に包まれる。奏は自分の心臓が早鐘のように鳴っていることに気付いた。
「そうか、それは挑戦だな」
高橋は否定も肯定もせず、ただ受け止めるような反応を見せた。
「どうして慶王なんだ?」
照明が消えた部屋の中で、高橋の眼鏡に太陽光が反射し、一瞬ギラリと鈍い光が目に飛び込んで来る。その光のおかげで高橋の表情が読み取れない。
「前に先生と話したモラトリアムの話、覚えてますか?」
「あぁ、懐かしいな。そんなこともあったな」
どうやら高橋は笑みを浮かべているようだった。
「それであれから考えたんですけど、俺、やっぱり今何をしたいかはっきりとわかんないです。でも、何となくなんですけど、残りの期間慶王に行くためにしっかり自分と向き合って、努力して、その結果東京に行って、そうすれば自ずとそういうの見つかるかもって、そう思ったんです。それに経済学部であれば、その後の動きも他の学部に比べて取りやすいかなって。ごめんなさい。何か上手くまとめられなくて」
奏はひと思いに自分の頭にある断片的な思いを言葉にしたが、高橋はそのひとつひとつに頷きながら話を聞いていた。そして何も言わずに資料を捲り始めた。
「そうか。わかった。ひとつ聞いて良いか?」
高橋の目は真っ直ぐ奏を捉えていた。
「はい。何ですか?」
「もし、もしだ、慶王が駄目だった場合、どうするか?国立を含めた他の大学を受けて受かっていればそこに行くのか?浪人するのか?自分でもわかってるとは思うが、慶王合格の確率はそんなに高くはないはずだぞ」
奏は少し頭の中で考えを巡らせてはみたものの、明確な答えは浮かんでこなかった。むしろ、慶王を受けるという大きな目標を作るだけでも精一杯と言っても良いほどであった。
「正直、あんまり考えられてはいないです。受験日が近いんで泊まり込みで明翔大の経済学部も受けようとは思うんですけど、受かったとして行くかどうかはわかんないです。何というか、投げやりではないんですけど、浪人とかもそれはそれで良いのかなと。本当に行きたいところとやりたいことが見つかるのであればそれもそれで有りなのかな、とも思います」
「そうか。親御さんは理解してくれているのか?」
「まぁ。ウチは基本的に放任主義なんで。たぶん大丈夫です」
「まぁ、お前は学校で禁止されてるバイトとかもやってるみたいだし、東京に行くだとか、浪人するかもしれないだとか、そういう細々した部分は大丈夫なんだろう」
奏は一瞬、高橋の言葉に耳を疑った。
「え?バイトのこと何で知ってるんですか?」
高橋はコーヒーカップを指さしてにやりと笑った。
「真田だよ。初めてバイトして金稼いだときに、その大変さが身にしみてわかったらしくてな。時任が1年の頃からバイトしてるって知ったときに、アイツがどれだけすごいことしてきたのかってのを聞いてもいねぇのに、嬉しそうにペラペラ喋るもんだからよ」
「はー。サイアク。マジであいつ何も変わっちゃいねぇ」
奏は頭を抱えたくなった。もしかするとここで、停学処分などが下るのでは、という不安も押し寄せてきた。
「まぁまぁそう言ってやるなよ。バイトのことを聞いたからって何か処分があるわけでもない。むしろこの状況でバイトとの両立をしていく覚悟があるのであれば、俺は応援する。もちろん、他の先生方には黙っておく」
奏は心底ほっとしていた。体から力が抜けていくのを感じる。
「なんか先生、4月の頃と雰囲気が違いますね」
思わず口調も滑らかになる。
「バカを言え。自分に一生懸命に生きてる奴には真摯に向き合う。ただそれだけのことだ。ただ何となく、それなりにって進路を考える奴が嫌いなだけだ。ここ最近自分と向き合うことで時任が前者になっただけだと思うぞ?」
「はい。嫌というほど向き合いました。そしてそれに気付かせてくれる奴らと出会いました」
「真田もその一人か?」
高橋は目を細めている。
「はい。もちろんです。普通、あんな事出来ない。正直無謀です」
「ははっ!お前の慶王もまぁまぁな選択だがな。でも正直、俺はロックはよくわからんが、あいつの書く曲は悪くないと思うぞ?」
「先生は、真田は大丈夫だと思いますか?」
少し日が落ち、強烈な反射がなくなった高橋の眼鏡の奥には、今まで奏が見たことがない表情が見て取れた。
「何をもって大丈夫というかはわからん。それこそ人それぞれだ。真田であれば、俗に言う『売れる』ことなのか、それともあいつらしい音楽を長く続けることが出来ることなのか、はたまた、きちんとした最低限の生活が送れる心身ともに健康である状態を指すのか、それはその人の尺度によって大きく異なってくるんだ」
奏は物事の本質に触れようとする瞬間に立ち会っているようだった。雲間から陽が差し込むように、今まで心の中を支配していた靄のようなものが晴れるきっかけがすぐそばにあるような気がする。思わず奏は息をのみ、高橋の次の言葉が出てくるのを待った。
「ただ、その中で大切なのは、真田自身がどう思っているかだ。真田が『売れる』ことが一番大事なのであれば、例えば28歳で浅葱に居てバイトをしながら音楽を続けている状態は大丈夫じゃないよな。でも、好きな音楽を続けることを一番大事にしているのであれば、それは真田にとって大丈夫な状態だと言えるんじゃないか?」
「でも人って周りの目が気になるじゃないですか」
奏は自身の率直な感想をぶつけてみた。
「人間は失敗が怖いからな。でも、本当にやりたいことなら何度失敗しても挑み続けるんじゃないか?それが出来ないのは、たぶん『憧れ』の状態だからだ。その状態はこうなれたら良いな、こうなったら良いな、の範疇を出ていないんだよ」
何故か高橋の言葉がストンと腑に落ちた。何故慶王なのか、確かに、慶王であれば多少周りからも賞賛を得られると思っている自分がいたのも、偏差値的な理由もあった。これが本当にやりたいことか?と問われればそうでないことは高橋の話の筋に合わせていけば明白だ。だが、逆に今はそれで良い。だってそういうものを、本当にやりたいことを、見つけに行くのだから。奏にとって最後の確認作業が終わった感覚があった。大丈夫。もう迷わない。
「恐らく、そういった葛藤だったり焦燥であったりのその先に、人を惹き付ける魅力みたいなものがあるんだろうな」
高橋はここまで話すと視線を自身のコーヒーカップに落とした。
「先生、ありがとうございました。俺後一ヶ月ぐらい、本気でやってみます」
「時任から頭を下げられる日が来るとはな。あぁ、何かあったらまた進路室に来てくれ」
奏は、進路指導室から出るとき、自分の背筋がピンと伸びていることに気がついた。