邂逅
十一月 第四週
やはり、それが出てくるまで待つべきなのか。それともそれはそれ、これはこれで、とりあえず受験勉強に全力を注ぎ、今行く事ができる最高レベルの大学を受験するのか。奏は揺れていた。それを千絵に問うのは簡単で、千絵も明確に答えを出してくれるだろう。ただ、それはどこか違う気がした。今だからこそそう思えた。
その後二人は取り止めのない話をして、時間をゆっくりと使っていった。この純喫茶『うみねこ』の雰囲気がそうさせたのかも知れないが、普段とは違う時間軸で二人だけの世界に訪れたようだった。うみねこのマスターに別れを告げて、二人は海岸線を歩くことにした。
「今日はありがとう」
「どうしたのいきなり?私別に何もしてないんだけど」
千絵はくるっと振り返りおどけて見せた。
「いや、千絵だから素直に話せた。ありがとう」
「こちらこそ、良いお店を紹介してくれて、おまけにココアまでご馳走になりました。ありがとう」
千絵はわざとらしく深々とお辞儀をした。
「そこかよ」
鼻で笑うようにそう言ったが、これぐらいの温度がちょうどよかった。すると、千絵が一歩分ぐいと間合いを詰め、顔を見上げてきた。目は真剣だった。
「ね、キスしてもいい?」
全く予想外だった千絵の発言に何と返答しようかと考えた刹那、唇に柔らかい感触が触れた。目を閉じるのを忘れるほど一瞬の出来事だった。
「初めてだったんだからね!ばーか!」
そういうと千絵は砂浜の方へと走って行った。よく分からなかったが、奏は千絵を追いかけなければならないと感じた。
「おい、待てよ!」
「やだ!待たない!」
「落ち着けって」
「これで落ち着いてられると思う!?」
「ってか、本気で逃げんなよ!危ないだろ?」
「こう見えて足、速いんだよ?元野球部でしょ?捕まえて見せてよ!」
「砂浜はヤバいって!コケるだろ?」
確かに千絵の足は想像以上に早かった。少し海水を含んだ湿り気のある砂は、足を捕まえ、なかなか進むのを許してくれない。
「うわ、やっばい。これ想像以上に足にくる」
流石の千絵もそろそろ疲れてきたようだ。
「当たり前だろ?半分叫びながら走ってるんだ、そろそろバテるぞ?」
奏の息も上がっていた。手を伸ばせば千絵に届くというところまで差を縮めたとき、千絵が足をもつらせて転びそうになった。このまま倒れ込めば泥だらけになってしまう。そう考えた時には、奏はすでに体を投げ出していた。
「痛ったー。って奏君?大丈夫!?」
千絵の下敷きになるように奏は砂浜に腹這いになっていた。
「俺は大丈夫。そっちは?ケガない?」
「ケガはないけど…コートが汚れた。帽子も汚れた!」
「そこかよ。すげー損した」
「なんで奏君は泥だらけなの?」
千絵は鼻を指差しニヤニヤと笑っている。
「お前が言うかよ」
奏は自分の鼻に手を触れると、周辺についた細かい砂を手で払った。
「ねぇ、私たち付き合わない?きっと上手くいくと思うんだけど」
千絵は砂浜に座ったまま、こちらをじっと見つめている。確かに千絵の言う通りだと思った。きっと上手くいくだろう。ただ、何となく、引っかかりを感じた。このまま千絵と付き合っても良いのだろうか?未熟なままの自分で良いのだろうか?そんな事を考えていると、返事に詰まってしまった。
「嫌なの?」
千絵が不安そうに顔を覗き込んでくる。
「嫌じゃない。嬉しいよ。でも」
「でも?」
「今は、ダメな気がする」
「何で?」
「今、やっと、どうしていけば良いか、わかった気がするんだ。もちろん千絵のお陰なんだけど。だから色々整理出来るまで返事は待ってほしい。入試が終わるまでは待って欲しい」
「でも、浅葱から離れるかもしれないんだよね?」
奏は上手く答えられなかった。ただ、その重要な選択をする際に千絵の存在があるかないかでは大きな違いが生まれることを奏は良く理解していた。そして、今だからこそ、千絵の存在で自分の人生を左右するような判断を下してはならないと考えていた。ずいぶん皮肉な話だと自分でも思う。恐らく数ヶ月前の自分だったらこんな事は考えなかっただろう。ただ、それを気付かせてくれた千絵だからこそ、中途半端なことは避けたかった。もちろんこのことを千絵に直接伝えること自体、千絵を大きく傷つけてしまう可能性がある。そしてきちんと伝えないことを選んでも不義理にあたることは奏が一番よく理解していた。
「だから、だよ。どっちに転んでも千絵には中途半端な事、出来ないよ」
千絵の大きな瞳が潤んでいくのがわかる。
「じゃあ、待ってれば良いの?」
「うん、ごめん。少し時間が欲しい」
千絵はうつむくと、一度大きく頷き、頬に一筋の光の川を作って笑った。
「そっか!わかった。待ってるね」
その返答に大きく安心している自分がいた。
「ごめん。ありがとう」
「奏君よりイケメンは世の中にいっぱいいるからなー。気が変わらないうちにハッキリするんだよ?」
「酷い言いようだな」
「だって、こんな美少女が告白してるのに、待たせるんだよ?信じられる?」
「そうだな。俺の問題なのにな」
「そんなにテンション下がり気味で話さないで?千絵が振られてるみたいじゃん!」
「そうだなごめん」
すると突然千絵は声をあげて笑いだした。
「っていうかさ、今の私たちヤバくない?なんで砂浜で二人して泥だらけになってんの?側から見たら変質者でしょ?」
奏は立ち上がろうとする千絵に手を貸そうと右手を差し出した。
「さぁ、砂落として帰ろう」
「なにカッコつけてんのよ」
不意に下から腕を思いきり引っ張られ、奏は顔面から砂浜に突っ伏すような形になった。
「ばーか!」
千絵は素早く立ち上がると、バス停の方に向けて駆けていった。その後ろ姿は美しかった。奏は立ち上がり、千絵を追いかけた。舌が唇に触れると砂のざらつきとほのかにカカオの香りと砂糖の甘さを感じた。