邂逅

十一月 第三週

「じゃあ、どこか行きたいところ、あるの?」
「それは、はっきりとはないけど。逆になんで千絵は浅葱なんだ?」
「なんだかんだ言っても、私、浅葱の事が好きなんだと思う。夏祭りの時、やっぱりそう感じたの。だから浅葱の女の子のために、可愛いネイルいっぱい作ってあげたい。オシャレにしたい。それが私のやりたい事なの」
「もし、他にやりたい事が出てきたら?」
「それはその時考えれば良い事よ。それまでは一生懸命にネイリストになって自分のお店を持つ事ができるまで頑張るつもり」
「でも、それはいつ来るかわからないだろ?」
「それでも、今の私にはネイルが一番なの」
一番、このフレーズがずしりと響いた。今の自分にとって、何が一番なのだろうか?拓巳のように野球が一番と言い切れるだろうか。真田のようにバンドや音楽が一番だと言い切れるだろうか。光のように、慣れ親しんだ故郷とバスケを天秤にかけ、悩み抜いた末にバスケを選べるだろうか。千絵のように十五歳でネイリストとして生きていく覚悟を決め、それを堂々と人前で話せるだろうか。いや、どれも無理だ。まず、自分は彼らや彼女らではないから、同じものが一番なはずはない。それに、彼ら、彼女らの一番はすごく身の丈に合ったものだと感じた。言い換えれば「らしさ」があるのだ。
「そうか。ネイル、好きなんだな」
「当たり前じゃない。もはや向き合いすぎて嫌いになるぐらいよ」
「嫌いになる?」
「そう。私、もともと絵がすごく苦手なの。手先も器用じゃないし。でも、頭の中には最っ高に可愛いネイルのイメージがあるの。それを具現化できないのってかなり苦しいことなのよ。それこそネイル自体を嫌いになるくらい悩んだ」
千絵は汗をかいたグラスを手に取ると一口だけ水を口に含み続けた。
「でも、負けたくなかったんだ。毎日夜遅くまで、まずはノートにモチーフを鉛筆で書くことを続けたの。毎日毎日。ハートなんてもう見たくなくなるぐらい。そしたらね、気付いたんだ」
奏は黙って千絵の話に耳を傾けることにした。
「私、ちゃんと見てなかったんだなって。ちゃんと見てなかったから、書けなかったんだなって、そう気付いたの。そこからかな、モチーフだけじゃなくて、例えば人だったり、風景だったり色んな事をよく見るようになったのは」
「なんか、今日の千絵、かっこいいな」
奏は本心からそう思った。
「やめてよ。恥ずかしい。まだまだ一人前じゃないんだから」
千絵は顔を真っ赤にして、トイレとだけ小さく言い残し、席を立った。コーヒーの香りとほのかなカカオの香りが輪郭を増していた。
「失礼します」
マスターはトレンチの上に二つのカップと、クリーム、砂糖が入った小さなポットを乗せ、机の上に音も立てずに置いていった。
「突然で申し訳ないのですが」
マスターは軽い咳払いをして、遠い目をして海を見つめながら奏に話しかけてきた。
「私が、コーヒーに魅せられてもうすぐ四十年が経とうとしています。暑い夏の日でした。遊びに行った東京の古い喫茶店で飲んだアイスコーヒーの味が忘れられなくて、何度も何度も家のインスタントコーヒーで再現しようとしては失敗してを繰り返していました」
ゆったりとした語り口は、どこか紙芝居でも読んでいるようなものだったが、妙に惹き付けられた。
「気付けば、将来の進路が喫茶店のマスターになるのが既定路線みたいになってしまっていましてね。単身アメリカに留学に行ったりもしました。でもね、不思議なことに、納得のいく一杯を作れたことがなくてね。最近は、『これが俺の味だ』って言う逃げ道まで覚えてしまったものだから、余計厄介だ。彼女を見ると少し羨ましくなったんですよ。自分の限界なんてないって、そんな顔、してるでしょ?」
「そう言われれば、そうですね」
マスターは奏の方を振り返り、白い口ひげを蓄えた顔でにっこりと笑った。
「そうでしょう。私みたいな年寄りになるとね、もう自分の天井がすぐそこまで見えてしまうんですよ。あ、それはそれで、悪くはないんですがね。どうか、素敵な彼女、大切にしてあげてくださいな。少し喋りすぎましたね。ごゆっくりどうぞ」
マスターはそう言うと一礼をして、カウンターの方に戻り、グラスやカップを乾いた布で丁寧に磨き始めた。奏はブラックコーヒーはあまり好きではなかったが、あまりに良い香りがするもので、一口だけ口に含んでみた。今まで飲んだどのコーヒーより香りも味も素晴らしいものだった。
「あ。先に飲んでる!普通待つよね?」
トイレから出てきた千絵に見られていたらしく、非難されてしまった。千絵は静かにテーブルに着くと、両手を合わせ、いただきますと小さな声で呟いた後、ココアが入ったカップを両手で持ち、一口ココアを口にした。
「わ。おいしい。甘すぎないし、香りがすごい!」
千絵は本当に幸せそうな顔をしている。きっと、千絵の目には色んなものがカラフルに見えているんだろうなと、奏は思った。本当はそんなことはないのだろうが、拓巳にも、光にも、真田にも、加奈にも、自分が見ている世界よりも沢山の『色』が見えているのであろうと、そう思った。
「俺、千絵のことが羨ましい」
「奏君、さっきからどうしたの?」
千絵は困ったように笑っている。
「俺さ、そこまで何かに一生懸命になったこと、ねぇわ」
千絵はじっと奏を見つめている。
「野球もそりゃ一生懸命にやってたと思うけど、今思えば多分まだまだ一生懸命に出来たはずだった。今もそうだ。別に勉強を全力で頑張ってるわけでも、バイトを一生懸命やってるわけでもねぇ。全部何となくなんだ」
千絵はうんうんと頷きながら話を聞いてくれている。
「今まで、上手いことやれてたフリしてるだけで、実際に何かやっとこと、多分ねぇんだわ」
心なしか、店内のジャズの音が小さくなったように感じる。暖炉のぱちぱちという音がやけに大きく聞こえ、心臓の鼓動が耳元で鳴っているようだ。
「かっこわりいけど、多分そうなんだ。だから、俺やっぱりまだいろいろ決められそうにないかもしれない」
窓の外の波の音が聞こえた気がした。
「そっか。今はそれで良いんじゃない?」
千絵は両手で握りしめているカップに目線を落としながらそう言った。そして視線がスッと上に上がると奏の目とばっちりと合った。
「だって、皆、その奏君で良いって言ってくれてるんでしょ?気負う必要はないよ。皆が、自分の進むべき道を見つけるのがちょっと早かっただけ、そこに偉いも偉くないも、カッコイイもカッコ悪いも、ないよ」
「でも、大学はどこに行くか決めないと」
「そりゃそうだよ。でも自分と向き合わないと、それも見えてこないんじゃないかな?」
ヤカンの中で水が沸騰する音が店の中で響く。
「それはそれ。これはこれ。だよ。何でもいっぺんに解決する訳じゃないんだから、一つ一つやってけばいいんだよ?」
千絵の言葉はなぜか胸の中にスッと入ってきて、収まりがいい場所にストンと落ち着くような感覚がする。
「そうだな。一回真剣に考えてみるよ」
千絵の顔に花が咲いたように見えた。ーとはいえ、何から始めれば良いのか奏には見当がつかなかった。他人よりも優れている点は探せば山ほどあったが、そのどれをとってみても、人生を賭けて、であったり他のものをかなぐり捨てて、であったりする程本気で取り組もうと思えるものではなかった。