邂逅

十一月 第二週

「そんなことないよ。それよりバス停って何番だっけ?」
「八番じゃなかった?子どもの頃に行ったっきりだから忘れちゃった。奏君はよく行くの?」
「うーん。三年ぶりかな?」
二人で並んで歩き、八番のバス停へと向かう。端から見ればこの二人はカップルに見えるのであろう。そんなことを前も考えたが、千絵はどう思っているのだろうか?
「今日は何で海なんかに誘ってくれたの?」
「大事なこと決めるときに咲良ヶ浜に行くんだ」
「ふーん。大事なこと?」
「そ。大事なこと」
千絵はそれ以上詮索してこなかった。千絵のことをよく知る前はズカズカと人の領域に足を踏み入れてくる常識がないやつだと思っていたが、千絵は意外と距離感をよく見ている。
「そう言えば、バイト辞めてからどう?」
「ねぇ、それこの前も聞いてきたでしょ?もしかして忘れちゃったの?」
千絵は頬を少し膨らませている。世間ではあざといというのだろうけれど、ファッションといい、仕草といい、千絵は自分のことをよくわかっている。
「覚えてるよ。改めて聞いてみたくてさ」
「んー。この前言ったとおりだよ?トータルよかったって思ってる」
本心なのだろう。千絵の表情は嘘をついているようにも我慢しているようにも見えなかった。
「そっか。俺は辞めてからやっぱりつまんないって感じるな」
「え?居て欲しかった?」
そう言うと千絵は悪戯っぽく笑う。
「まぁ、居ないよりはマシだったかな?」
嘘だ。実際に会ってみて、分かった。今、千絵にすごく惹かれている自分がいる。
「素直じゃないんだからー。でも奏君もそろそろ本気で勉強しないとやばいでしょ?どうするの?」
千絵のストレートな質問は逃げ場がない。それが今の関係性だからか、色々なことに揺れている自分の状況から来ているものなのかはわからないが、はぐらかさずに答えることにした。
「それを今から決めに行くんだよ」
「私も居た方が良いって事だよね?」
「うん。だから呼んだんだ」
「そっか。責任重大だね」
奏の方を向き直り、目を見て千絵はそう言った。
 

 一時間に二本しか運行がない咲良峠に向かうバスは空いていた。市街地を抜け、咲良団地にさしかかるあたりになると乗客は千絵と奏だけになっていた。いつも通りのとりとめのない話をしていくうちに、奏は千絵との間に出来ていた目に見えない壁のような、ポッカリと空いた空白のようなものは、自分の思い込みによって出来ていたものだったかもしれないと考えるようになった。やはり、会ってみないとわからないことはある。さらに言えば、心を開いて会ってみないとわからないことは確実にある。真田も千絵も福田でさえもそうだった。最近、拓巳や光以外の多くの人間が心をかき乱していく。いや、そんなに乱暴なものではないかもしれない。水彩絵の具をパレットに取り、筆を使い色を混ぜ合わせ、また他の絵の具をパレットに出す。色が混じらないように筆を水につけ洗い、また同じ事を繰り返す。そのたびに水差しの中ではパレットの上のように瞬時に色が混ざり合うのではなく、海月のように傘を作っては徐々に色を変えてゆく。まさに今の奏の心そのものだった。

 
 バスは峠にさしかかり、右手には浅葱の市街地が見える。この街に住むどれほどの若者がこの街から出ることを考えているのか、そんなことを考えていると街が少し寂しそうに見える。
「奏君はさ、大学は県外?それとも県内?どっちを考えてるの?」
不意に千絵が話しかけてくる。
「うーん。それもまだ決めてないんだ」
視線は窓の外に向けたままそう答える。
「ってことはひょっとすると、春には浅葱にいないかもしれないんだよね?」
そう尋ねる千絵の声はいつもよりワントーン落ち着いていた。
「そうとも言えるな」
先ほどよりも一層、街が寂しがっているように見えた。
「そっか。それは寂しいことだね」
千絵はそう言うと頬杖をつきながら奏とは逆の窓の外を見やり、黙ってしまった。さっきの問いの真意はどこにあるのか?そんなことを考えていると、二人が座っているバスの一番後ろの、横に広いシートの居心地が急に悪くなったように感じた。バスはゆっくりと登坂車線を登り、峠の頂上へと向かっていた。エンジン音とカタカタと細かくバスが揺れる音だけが響く車内は、ひどくゆっくりと時間が流れているようだった。奏は何故か千絵の方に目を向けられずにいた。
 

 バスがいよいよ峠を越えようとした時、奏は左の肩のあたりにズシリと重みを感じた。そちらに視線をやると、フェルト生地の黒い帽子がそこにあった。洗剤なのか、柔軟剤なのか、はたまたシャンプーの香りなのか、女子特有の甘い香りがふわっと広がる。それは光のものとは違い、か弱さや繊細さを感じさせた。
「どうした?」
左肩に頭が密着している状態で顔を左側に向けることができないため、千絵の表情を窺い知ることは出来ない。視界にはベレー帽が見えるだけだー千絵は何も答えない。
「千絵?どうした?」
普段呼ばない名前でもう一度呼びかけてみる。やはり反応はない。軽く千絵の右肩を叩くが左肩から重みが消えることはない。バスの音に混じり、すーっと寝息をたてる音が聞こえる。どうやら千絵は奏の肩に身を預け、眠ってしまったらしい。ベレー帽とモッズコート越しではあるが、そこに確実にある千絵の体温を感じた。目的地はどうせ終点だ。自分もベレー帽に頭を預けて眠りにつこうかとも考えたが、どこかもったいない気がして奏はまた浅葱の街を見下ろすことにした。進路や不安や苛立ち、焦燥など全てを捨て去ってこのまま時間が止まってしまえばいいのに。本気でそう思った。バスは峠を過ぎ、下りに差し掛かった。山の向こうの景色は市街地と打って変わって黒々とした海に時折白波がたち、寂しさなど微塵も感じさせない、自然の厳しさを示しているようだった。それでも依然として車内の時間はゆっくり流れているようだった。まるで、バスは二人だけを乗せてどこまでも進むように思えた。

 
 山道が終わり、海岸線を縫うように港町を中継して進むバスにあっても、千絵は静かな寝息を立てたままだった。途中何度か大きくバスが揺れたが、千絵はその度に奏の左腕に自分の腕を巻きつけるように掴み、目を覚ますことは無かった。ふと、奏は誰かにここまで無防備な姿を見せたり、身を預けたりすることができるかを考えてみた。きっと拓巳にも光にも無理だ。じゃあ、千絵には?矛盾しているようだが、千絵にもきっと出来なかった。やはり自分の弱みを誰かに見せることは得意ではなかったし、ようやく、光や拓巳にはそういうことを少しだけ伝えられるようになったばかりだ。ましてや、千絵には?明白だった。しかし同時にそれは少し悲しいことなのかもしれないとも思えた。もし、千絵が恋人だったとしてもそう思ってしまうのだろうか?そんなことを考えると、ふっと左腕から重さが消えた。腕の方を見ると千絵が眠たそうにこちらを見上げている。思わず息を呑んだ。
「おはよう」
「ごめん。気付いたら寝ちゃってた」
「いいよ。疲れてるんだろ?」
「ううん。私乗り物乗るといつもこうなの。なんかやたらと眠くなっちゃうのよね」
「子どもかよ」
軽く千絵の頭を小突いてみる。
「もうすぐ着くね。めちゃくちゃ寒そうなんだけど」
千絵は窓の外を眺めると手に息を吹きかけていた。
「大袈裟だな。まだ寒くないだろ?」
「久しぶりのデートだっていうのにもう少し気遣いみたいなもの、ないわけ?」
千絵の口調は砕けていて、冗談を言っていることは容易に想像がついたが、デートという部分にひっかかりを覚えた。奏は「そんなんじゃねぇよ」とでも言おうかと思ったが、ひどく無粋なことをしようとしている感覚があり、その言葉を飲み込んだ。
「バス停から海岸沿いを歩くと、確かカフェがあるんだ。着いたらそこに入ろう」
「へー。咲良が浜のこと詳しいんだね」
「前走ってきた時に命拾いしたカフェだからな。そうそう忘れないよ」
「走ってきた?奏君って意外と訳分かんないことしてるよね」
二人はそこからバスが終点に着くまで、奏が何故野球を辞めるに至ったのか、何故咲良が浜に行くことになったのか、最近奏の周りで何があったのか、を話した。話したといってもほとんど奏が一方的に話すのを、千絵はときどき相槌を打ちながら聞いていたにすぎない。奏は滅多に自分の話をしないのに、スラスラと過去のことや身の回りのことを喋っていることに驚いていた。千絵が隣にいるということが、きっとそうさせているのだろう。

 
 バスは終点に着き、ぽつりぽつりとサーファーがいる、大きな砂浜が目の前に広がった。吹き付ける風はやはり強く、冷たい。千絵に何かを言われた訳ではないが、海岸線を歩きカフェに向かう道の途中で、奏は風上に立って千絵に風が直接当たらないようにするため、千絵と場所を入れ替わった。なんとなく、そうした方がいいような気がした。千絵は嬉しそうな顔をしていた。
「ホットコーヒーと…」
「ホットココアでお願いします」
スーツを着た初老のマスターはスッと一礼をして
「かしこまりました」
とだけ言い残し、カウンターの中へと戻っていった。部屋の中は程よく暖かく、微かにジャズが流れていた。海岸線の民家に混じって、小洒落た煙突付きで煉瓦造りの小さな一軒家がぽつりと建っていた。奏は曖昧な記憶を頼りにこのカフェに辿り着いたが、入り口を開けると目の前に見える大きな暖炉に見覚えがあり、ここが三年前に訪れたところだと確信した。マスターが一人でやっているようで、カウンターの中には、レコードに関連したものなのだろうか、見たこともないような機材が多く並んでいた。
「こんなオシャレなところよく知ってたね」
千絵は目を輝かせ店内の装飾品の数々を眺めていた。
「ぶっちゃけ、こんなだったかは、あんまり覚えてないんだけどな。ただあの暖炉は間違いなくあった」
奏はそう言うとパチパチと薪が赤く燃えている暖炉を指さした。
「映え、だね」
千絵はそういうと笑っていたが、パシャパシャと写真を撮ることもなく、ただこの空間を楽しんでいるようだった。
「やっぱ、咲良が浜、いいな」
心の声が出てしまったかのように、気付けばそう呟いていた。
「浅葱、良いところでしょ?」
千絵は真剣な目をしてこちらを見つめている。
「咲良が浜は、な」
「なんでそんな意地悪言うの?」
千絵は困った顔をしている。恐らく、進路の話をしたいのだろう。
「浅葱の近くにも大学はあるよ?」
「千絵は浅葱で生きていくのか?」
「それは、わかんない。でも、今はこの街を離れるつもりはないかな?」
「なんで?俺はなんとなくだけど、こんなちっぽけな田舎町、出て行きたいと思うけどな」