邂逅
十一月 第一週
邂逅
初霜が観測され本格的な冬を迎える一歩手前、奏には大きな変化が訪れていた。それは、千絵が辞めたことによりバイトのシフトが大きく変わり、夜型の生活になったこと、それと同時にどこか生活にハリのようなものが無くなり、バイトに面白みがなくなったことだ。奏はいつの間にか千絵の存在が自分の中で大きなものへと変化していたのを、思わぬ形で実感するのだった。とはいえ、バイト先で直接顔を合わせることは無くなったものの、毎日のようにメッセージでのやりとりは続いていた。液晶上でのやりとりは今までと何も変化がないようにも思えたが、心なしか目に見えない壁のような、ポッカリと空いた空白のようなものが二人の間に出来てしまったようにも感じる。
よく恋愛関係の男女の間にある『会いたい』というような甘い香りがする感情ではなく、今千絵が何を思い、何を考え生きているのかを『知りたい』と言ったほうがいいだろうか。とにかく今奏は千絵の事が気になっていた。そして、それを確かめるためにあったバイトという口実がない今、その口実を探している自分にも気が付いていた。急に誘い出して変な空気にならないだろうか?まだ親しいと感じているのは自分だけなのではないだろうか?頭の中を様々な思いや感情が渦巻き、なかなか誘うことができないまま二週間ほどが過ぎようとしていた。
このような機微は拓巳や光の方が詳しいのではないか、という考えもあったが、なんとなく二人には、特に光には相談できずにいた。その理由が何故だかはよく分からなかったが、光には千絵の存在すらも伝えていなかったことも影響しているのかもしれない。別に隠したかったわけではないが、あえて言う必要もないと思ったのも事実だ。ただ何となく、伝えるのが躊躇われたのだ。だからといって拓巳にこの手の相談なんて死んでもしたくないと思っている自分もいた。理由は至極単純明快—弱みを握られたくなかったのだ。拓巳が加奈と付き合うことになる直前、しきりに恋愛相談をしてくる拓巳はいつもの冷静さも男らしさもなく、ただのどうしようもなくみみっちいナヨナヨした男のように感じられた。恐らく加奈と付き合っていなかったなら、一生このネタで拓巳をイジっていけると思えたほど気色悪かったのを、奏は鮮明に覚えていた。自分が千絵に恋をしている自覚はないが、それに近い状態にあるのではないか、という感覚はうっすらあった。もし、自分があのときの拓巳のようになってしまっていたら・・・あんな姿を拓巳に晒すことだけはまっぴらごめんであった。
そうなると、奏が頼れる同年代の人間と言えば真田ぐらいしかいなかったが、真田に相談するのも何か違う気がした。元々感性がぶっ飛んでいる宇宙人みたいなヤツだ。物事をロックかロックじゃないかで判断する人間が女心の細かいところまでを推し量れるなんて微塵も想像できなかった。むしろ、そんなヤツがロックを語っていてたまるか、とも言えそうだ。結局自分で行動してみるしかないと感じた奏は、自分の気持ちを率直に千絵にぶつけてみる事にした。
『お疲れ。千絵が辞めてから、何かバイトつまんねぇ』
自分でもビックリするぐらい、本心が文章に乗った気がした。
『お疲れ!何か奏君らしくないね笑 いきなりどうしたの?』
数分後に来た返事を見て少し安心している自分に気付く。
『いや、そのまんまなんだけどさ。バイトしてても話すヤツいないし、今までバイト結構楽しかったんだなぁって』
『良く言うよ!笑 半年ぐらい前まで、私との会話も結構ダルそうだったくせに!』
これは良く千絵に言われることだったが、奏にもその自覚はしっかりとあった。半年前までは、人生という名前の舞台の中でバイト仲間A役だった千絵は、もうしっかりと「千絵」という役を与えられ、すっかりモブキャラは卒業している。
『またその話?笑 今何してんの?』
確かに最近、光や加奈から変わったと言われる事が多くなったが、こうやって肝心なところをはぐらかしたりする癖は変わっていないなぁと自分でも感じている。それが狡さだということにも気が付いてきた。
『今度の試験の為に勉強しなくちゃなーって思ってたら、どっかの誰かさんが急にらしくないメッセージ送ってきたから、構ってあげてるんだけど?』
やっぱり、この温度感はすごく心地が良い。どこか拓巳や光との間にある空気感とも似ているのだが、それよりも少しだけ淡い光が当たり、暖かい場所にいるような感覚に陥っている。しかし、これを心地良いと感じている自分に違和感があることも確かだ。
『年上に対しての態度じゃないな笑 そう言えば、バイト辞めてみてどう?』
『今に始まったことじゃないでしょ?笑 んー。そうだな・・・やめてよかった・・・かな?』
少し予想外の返答に奏は一瞬固まってしまった。千絵は自分と同じように、バイトが無くなったことでぽっかりと穴が空いてしまっていると考え、同調を求めたのだが、どうも千絵は違うらしい。何だか急に馬鹿らしく思えてきた。
『ふーん。そうなんだ』
『もしかして怒ってる?言葉足らずだったかもしれないけど、私にとってはよかったかな?って意味だよ?』
既読がつくのと返信がかなり早かったこともあり、千絵が釈明しようとしているのが手に取るように分かる。それを喜んでいる自分が居るのにも気付き、どこか複雑な気持ちになった。千絵の一挙手一投足に心がかき乱されている。
『うーん。どういうこと?』
努めて冷静に振る舞おうとする。既読がつき数分が経つ。恐らく言葉を選んでいるのだろう。
『何ていうか、私って一個のことしか出来ないからさ。正直バイトは楽しかったし、居心地良かったし、続けていたかったけど、私が本当にやりたいのはバイトじゃないんだよね。ネイリストになるために、バイトしてたはずが、バイトが生活の中心になりかけてた。それって本末転倒じゃない?それに気付けて、今一生懸命にネイルのことだけやれてるから、良かったって言えるかな?』
光は、居心地が良い場所を手放すことが怖いと言った。千絵は、居心地が良い場所をあえて捨てることで、より視界がクリアになったと言った。どちらも正しいことだろう。ただ、どちらの方が正しいか、と問われれば即座に答えることは難しい。結局、『何が一番か』が大切なのだ。光は、居心地の良さを一番としかけた。が、自分の目標のためにそれを捨てる覚悟をした。最終的には千絵も光も同じ判断を下していることになるのだが、果たして、今の自分にとっての『一番』が何かということは分からないままだ。何となくそんな何かがある光や千絵が羨ましく思えた。
『そっか。俺はもしかしたらバイト、続けるかもしれない』
『え?でも受験近いでしょ?大丈夫なの?』『俺にとっての受験は、千絵にとってのネイルとかと比べると多分、かなりちっぽけなもんなんだなって今思ったわ』
『そうは言っても・・・元々やめるつもりだったでしょ?』
『まぁ、ね。でもまだ実は店長にも言ってないし、夜勤はそこそこ儲かるしな』
『後悔しないならいいんだけど』
何故か、液晶に表示された後悔という二文字だけが瞬間的に目に飛び込んできて、奏は胸の奥をグッと押されたようだった。これが、奏がメッセージでのやりとりがあまり好きになれない理由でもあった。直接面と向かって話すときは言葉の調子や表情、声色などから相手がその言葉で示したい本当の意味を推し量ることはそれほど難しくないのだが、文字だけだとどうもそうはいかない。奏が千絵に対して、会いたいというより知りたいという気持ちが強い理由には、メッセージのやりとりだけでは伝わらない心の奥底までを知りたいという意味が込められているのだった。奏は、今回の「後悔」が持つ意味を考えてみたが、しっくり来るものが無かった。
『まぁ多分大丈夫。ところで、今度の土曜日何してる?』
うじうじしている自分にもこの状況にも嫌気がさし、二週間ぶりに千絵に会ってみたくなった。そこでこのぽっかりと空いてしまった穴の正体と、その埋め方を探しに行こう。
『特に予定はないけど、どうしたの?』
『いや、会いたいなって思って』
『待って、どうしたの?笑 別に良いけど、どっか行く?』
『咲良ヶ浜は?』
『え?もう冬なのに海?別に良いけど笑』
『じゃあ駅のバスセンターに十時!』
『わかった!勉強も頑張ってね?』
『ありがとう!じゃあ土曜日に!』
初めて、何も口実が無くただ会いたいという理由だけで千絵を誘った。ただ、後悔は無かった。自分がそうしたいからそうしただけだ。場所を海にしたのも特に理由はない。そうしたかったから、そうしたまでだ。今はなんとなく、それでいい気がした。いや、それがいい気がした。話す内容も決まっている訳ではない。今千絵が何を感じ、何を考えているかを知りたかった。拓巳や光に話すと一笑に付されるかもしれない。でも今はそれで良いのだ。
土曜日は、冬が近づくにつれて天気が優れなくなる浅葱の天気を、絵に描いたような空が広がっていた。風はまだ刺すような痛みをもたらすほど鋭くはないが、しんと張り詰めた空気は冷たく、そしてずしりと重かった。こんな日に海に行くというのは少し風情がないとも取られかねなかったが、奏は冬の海はシンプルで好きだった。夏のようにキラキラと光る水面も抜けるような空の青さもそこには無い。海水は黒々と鈍い光を放ちモノクロ写真のようなコントラストが広がる。海水浴客でごった返すわけでもなく、波が寄せては返し淡々と時が流れる。そこには人間の心の中の問題や悩み事などがちっぽけに思えるほど、ただ海があるだけだ。このシンプルさを奏は心地よく感じていた。野球を辞めると決意したのも咲良ヶ浜で、それは中学三年の冬だった。そこには光も拓巳ももちろん家族でさえもいなかった。今日と同じ土曜日、行く先を考えずいつも履いていたランニングシューズで駆け出したままにたどり着いたのが咲良ヶ浜だった。今考えれば、普通はバスで小一時間かけていく場所によく走って行ったなと半分感心するが、咲良ヶ浜に着く頃には肉体は疲れ果て、荒い呼吸を整えようと肺が冷たい空気を吸い込む度に頭はクリアになっていた。その時、野球でやりたいことはやり尽くしたと感じてしまったのだ。恐らくあの時に投げた球より良い球を投げきる事は今後ない。その球を打ち返されたのだ。後悔などあろうはずがなかった。そんなことを思い出していると、不意に強い風が真正面から吹き付け、着ているモッズコートについているフードの紐がぱちぱちと頬を叩いた。思わず右手を顔の前にかざし目にゴミが入らないようにしていると、風上から千絵が歩いてくるのが見えた。スキニーにタートルネックのセーターの上からロングコートを合わせたスタイルの千絵は遠目からでも目を引くほど目立って見えた。
「奏君早いね、待った?」
「ううん、大丈夫。それより呼び出してごめん」
「全然!暇だったし。それより風強いねー。海大丈夫かな?」
「風はここよりも強いかもなぁ」
「えーこのベレー帽お気に入りなのに飛んでったらどうしよう」
「その時はダッシュで拾いに行くよ」
「えー?絶対ダルいとか言って見てるだけでしょ?」
そんなに期間は空いていないはずだったが、久しぶりの空気とテンポ感に懐かしささえ感じる。夏物の千絵の服のセンスも高いと感じたが、秋冬物のそれも周りにいる女子達の物とは比べものにならないほどだった。正直、千絵と面識がなければ読者モデルだと言われても疑わないレベルだ。