梅雨の月

六月 第二週

季節はまだ梅雨にもなっていなかったが、浅葱西の体育館には、じめっとした空気すらも焦がすようなそれぞれの「最後の夏」が迫っていた。

 
 奏は拓巳や光の部活が熱を帯びていくのを肌で感じていた。かつての自分がそうだったように、眼が違うのだ。それは、まだ見ぬ敵に対してというよりは自分に、自分のチームに対して向けられるものなのかもしれない。この眼になった者は危うくも力強いことを奏は知っていたし、それがどれだけ儚く、刹那的なものかも知っていた。だからこそ、奏は二人を見守ることにした。そして何かあれば頼れる存在であろうとした。
「あー。今日じめじめしてて、怠いなー」
そんな奏の事はまるで関係ないかのように、坂下千絵は今日もコンビニ店員を辛うじて全うしていた。
「時任さんって基本長袖ですけど暑くないんですか?」
枝毛を探しながら坂下が問うてくる。
「店の中除湿効いてるから」
「えー。代謝低いんじゃないですか?」
ただ暇つぶしに会話をしたいということは奏にも理解出来るのだが、坂下との意味のない会話は相変わらず苦手だった。
「いや、俺デブじゃないんで」
「え?それ遠回しに千絵のことデブって言ってんの?」
「違いますって」
思わず苛ついてしまう自分も嫌だった。
「そういえば、前に話してた幼なじみとはどうなったんですか?」
「どうって、どうにもなってないよ。只の幼なじみです」
奏にとってはこの敬語とため口が混じったしゃべり方も直したかったが、バイトの上下関係と年齢の関係は複雑だ。またバイト先での関係も良好かと言えばそうでもなかったため、未だに改善できずにいた。
「えー。でも絶対時任さんのこと好きだと思うんだよなー」
「少し話しただけだろ」
「いや、女の勘ってやつ?」
枝毛を探すのに飽きたのか、今度はつやつや光るネイルに目を向けている。
「なんなんですかそれ」
「結構当たるんだよ?」
「知らないっすよ」
すると坂下はくるっと奏の方に向き直って、奏の思いもよらないことを口にした。
「じゃあさ、今度千絵とデートしてよ。見たい映画あんの」
「は?何言ってるんですか?冗談でしょ」
「えー。時任さん、女の子が勇気出して誘ってんのにその反応はないわ」
確かに、坂下の眼は冗談を言っているようには見えなかった。さらに、妙にと言ったら適切ではないかもしれないが、坂下の整った顔立ちを真っ直ぐ見つめると断れない自分もいた。
「あ、いや、なんで俺なのかなって」
「え?顔がタイプだから。そして幼なじみさんにも気を遣わなくて良いってわかったから」
この潔さに、奏は思わず呆気にとられてしまったが、坂下らしいと言えば坂下らしいこの言動に思わず笑ってしまった。
「なんで笑ってんの?失礼が過ぎるんだけど」
坂下の頬は少し赤く染まっていた。掴みどころがないと思っていた坂下が自分の行動で表情を変えていく様は、奏の好奇心をくすぐるには十分だった。
「いいですよ。今度いつ休みなんですか?」
「土曜日かな?」
「わかりました。俺も空いてるんで行きましょう」
「え?マジやった。じゃあ、昼過ぎに駅前でいい?ってか今更だけど連絡先教えてよ」
「え?教えてなかったですっけ?」
「聞いてないよ。もう二年経つのに」
奏は携帯電話を開き、連絡用のアプリを開いた。世間で言う「盛れてる」坂下のアイコンは恐らく浅葱西高の誰よりも垢抜けて見えた。
「はい。このチエってのがアタシね。ってか時任さんって野球やってたの?」
奏のアイコンは使い古したグローブだった。
「うん。中学までだけど」
「うそ。千絵野球超好きなんだけど。何でもっと早くに言ってくれないわけ?」
「バイト中に言う必要もないでしょ」
気がつけば、奏と坂下の会話はいつしか中身のあるもの、言わばキャッチボールになっていた。
「時任さんいつもむすっとしてるから、嫌われてるのかと思ったし」
「そんなことないですって。色々難しかったんだよ」
「そのタメ語と敬語も良くわかんないから、どっちかにしてよ」
「じゃあ、タメ語にするわ」
「千絵って呼んでくれても良いんだよー」
いつしか冗談まで言い合うようになった関係を奏はすこし不思議に思った。数分前までは確かに苦手だった坂下に、少し心を許してしまっている自分がいたのだ。
真田にしてもそうだった。普段同じ空間にいて十分に理解していると思っていた人間が、自分の予想と反する考えや感情を持っている事の多さに、奏は戸惑いを覚えていた。そして同時に光が女子バスケの部員達に、拓巳が唐澤や藤村にこのようにして向き合っているのだとしたら、それは計り知れない労力と情熱がなければ出来ないことだとも感じた。
 
 
 週が明け、浅葱西ではいよいよ各大会までのカウントダウンが始まっていた。メンバー発表が各部で行われ、そこには悲喜交々それぞれのエピソードがあった。女子バスケ部も例外なく、監督の橋本とキャプテンの光が話し合い、最終的なメンバーを選考した。
「私やっぱり、勝ちたいです」
どちらかと言えば内に秘めた闘志を燃やすタイプの光が橋本にそう直談判してきたのは、五月に入ってのことだった。ただ、橋本は一つだけ条件をつけた。
「わかった。ただ勝ちに行くためのメンバーは私に決めさせて欲しい」
光はこの言葉で、橋本は光の真意を汲み取った上で条件をつけてきたのだと確信した。
「わかりました。監督にお任せします」
そう約束してから、約一ヶ月が経った。他の部活は、総体一ヶ月前や二週間前など比較的早い段階でメンバーを決定していたが、女子バスケ部は大会開幕一週間前での発表になった。これもギリギリまで最良の決断が出来るようにする為の橋本の提案だった。
「それじゃあ、メンバーを発表します」
あらかじめメンバー発表の日であることが告げられていた月曜日の練習後のミーティングで、橋本は静かに口を開いた。
「もともと光とは『勝ちに行くチーム』、つまり全国に行くチームを作ろうと話していました。学年は関係ありません」
光には、円陣の中の三年生数名の部員の表情が強ばるのが見えた。
「ただ、メンバーを決めたのは監督である私です。このメンバーは光の意見ではありません。選んであげたかったけど、選べなかった部員もいます。ごめんなさい。総体ではサポートに回ってもらいます」
光は毎回この時間が苦手だったが、今年は例年のようなもやもやした気持ちはなかった。それはゴールデンウィーク明けから、今日まで部の全員が勝つことを目標にベストを尽くすことが出来たと感じていたからだった。
「各学年から選ばれた部員と背番号を発表します。三年生、光4番、紗菜5番、沙耶香7番、朋美9番、心春10番」
レギュラークラスが順当に呼ばれていく。控え組に緊張が走る。
「恵美13番、栞14番、玖実15番、以上」
その瞬間、一人の部員が泣き崩れた。一人だけ名前が呼ばれなかった、武田奈美だった。
「ちょっと待ってください。なんで奈美だけ—」
副キャプテンの白州沙耶香がそう言おうとしたとき、橋本がすぐさまそれを遮った。
「奈美、あんた左手、怪我してるよね?」
重く、落ち着いた声だったが、非常に優しくもあった。
「ごめん。私は指導者失格だよ。光が気付いてくれた」
部員の視線がキャプテンの光に集まる。その目は真っ赤に潤んでいた。
「いつもパスを両手で丁寧に受けるあんたが、右手だけで受けるようになったの、光は気付いてたみたい。私は片手でパスを受ける練習をしてるんじゃないかって言ったんだけど、『奈美がそんな雑なプレーするはずない』って、聞かなくてさ。申し訳ないけど、お母さんにも事情を聞かせてもらいました」
「だって、怪我してるって言ったら、絶対メンバー外されちゃうって思ったから」
武田奈美は子どものようにわんわん泣きながら、声を絞り出している。
「でも、もし治ってない状態で試合に出て、チームに迷惑をかけてしまったら、あんた自分のこと、許せないでしょ?」