梅雨の月

六月 第一週

梅雨の月

 
 中間試験が終わった浅葱西校には、最後の大会に向けて部活動にいそしむ者、試験の結果が思わしくなく将来に不安を抱く者、予備校や学習塾に通い出す者、三者三様の方法で高校生活を消費していく生徒達の姿があった。
「三者面談の日程希望調査の締め切りは、今週末までだ。土曜に全国模試があるからその時までに提出するように。また、まだ志望校調査、いや進路希望調査だな、これも同じ締め切りだ。数名提出がされていないから、提出するように」
今日も帰りのホームルームになっても高橋の髪型は崩れていなかった。その高橋が眉間に皺を寄せながら発した数名という枠組みのなかに奏と拓巳の名前もあった。
「拓巳、お前あの紙、何て書いて出すんだ?」
ホームルームが終わり、部活に行こうとする拓巳に、奏は問いかけた。
「んー。まだ何も決めてねぇ」
呼び止められた拓巳は、本当に何も決まっていないようで、その姿は清々しくも感じられた。
「野球は続けるんだろ?」
「まぁ、そのつもりだけど。そっちは?」
「俺も何も決まってねぇ」
「進学はするんだろ?」
「まぁ、そのつもりだけど」
「とりあえず何でも良いから書いとけよ。高橋が何とかしてくれるって」
「拓巳、お前いつの間に高橋派になったんだよ」
「そんなんじゃねぇよ。でも案外、あいつは悪いやつじゃ無いと思うぞ」
拓巳はそう言うと、教室を出て行った。放課後になると、三年四組の教室は他のクラスと比べてかなり殺風景に映る。それは部活動生の多さと、自習のために教室に残る生徒の少なさを表していた。奏は、バイトがない日はこのがらんとした教室に佇むことが多かったのだが、この時間をしばしば共にしていたのが真田広夢だった。
「真田はどうすんの?」
「んー。正直、俺も何も決まってねぇ。大学行くっつっても、大学行かなきゃ出来ないこと、したいわけでもないしな」
「モラトリアムが待ってるぞ?自ら放棄するのか?」
「んー。ロックじゃないだろ?その生き方」
真田がバンドをやっていることは、クラスの全員が何となく気付いてはいたが、それ以外の事は何も知らない者が多かった。奏もその一人だったが、飄々と話す真田のことは拓巳や光とはまた違ったスタンスで向き合う、大きなくくりで言えば友達の一人だった。
「出たよ。ロック。お前よく使うけど、そのロックって言葉にどんな意味があるんだ?」
真田はこれだから素人は、と言わんばかりの顔で奏を見る。
「ロックは概念なんだよ。言葉じゃ上手く伝わらないか。要するに、ロックを理解してるやつにしか、ロックかどうかなんてわかんないんだよ」
「なんだよそれ」
奏と真田はいつもこんな調子で会話をしていたが、不思議とお互い波長が合うようで、拓巳達とまではいかないが仲が良さそうに見えた。
「そういえば、この前お前高橋に結構しぼられてただろ?何があったんだ?」
窓際に座り、外から吹き込む少し湿った風に長い髪を靡かせている真田に奏は問うた。
「あー。髪、切れって。正直鬱陶しいんだけど、人から切れって言われると切る気無くすんだよなー。不思議」
真田は浅葱西の中でも特に目を引く容姿をしていた。目鼻立ちはハッキリしており、少し色素の薄い細身の長身は、どこかロックスターを彷彿とさせるものがあった。校則で禁止されているピアスが似合うのも納得がいく。
「勉強しない小学生の言い訳じゃないんだから」
冗談のように受け取った奏に相反するように真田の目は真剣そのものだった。
「自分でやんのと、他人にやらされるんのには、雲泥の差があんだかんね」
奏は、こういった独特の間や雰囲気がある人間が好きだった。
「まぁな。違いねぇや」
「あ、そうだ今度ライブ、観に来てよ。再来週の土曜日」
「あー。ごめん。その日バイトだわ」
「時任っちは正直に言ってくれるから、好きだなー」
「ん?どういうことだ?」
「バンドマンあるある。『行けたら行くわ』ってやつが一番信用できねぇ」
真田は白い歯を見せて笑っていた。
「シフト、2週間ごとなんだ。今度は1ヶ月前に誘ってよ。予定空けるわ」
「オッケー。卒業するまでに、1回は観て欲しいんだよね」
「バンド、どんな感じなの?やっぱ革ジャンとか着て絶叫する系?」
「ロックってどんなイメージなのよ」
真田はケラケラと笑っていたが、心底呆れているように見えた。
「でもまぁ、しょうがないか。百聞は一見にしかず。観に来たらわかるよ」
そう言った真田の表情からは、悟ったような、諦めに似たようなものが浮かんでいたが、その中には覚悟のようなものが確かに感じられた。それはまるで、拓巳や光が近頃時折放つものと似ていて、奏は一瞬息苦しさを感じたが、次の瞬間にはいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる真田戻っていたため、奏は少し安心した。
「楽しみにしてるよ」
奏はそう言って、教室を後にした。もうすぐ梅雨入りするかという、黒々として重く垂れ込めた雲海が、今日もバイトを口実に持てあました時間を潰すだけの自分と重なって見えた。奏の十七歳が終わろうとしている。

 

 高橋の手元には続々と四組の生徒達の進路希望調査票が届いていた。今の成績では厳しいと言わざるを得ない学校名が並んでいるものもあったが、おおよそ想定通りの結果だった。
「今年はどれぐらい現役で受かってくれますかね」
資料に目を通している高橋に初老の感じの良い婦人が声をかけている。
「加藤先生、まだ六月です。これからですよ」
高橋は笑顔を見せて軽くこの質問をいなそうとしたが、加藤は続ける。
「でも、今年の四組の生徒、例年に比べるといいんじゃないの?」
「まだ部活が終わってないので何とも言えませんよ」
やり手の高橋でも、どうも加藤が相手だと調子が狂うらしい。
「そうは言っても、浪人生の割合を減らすことは今年の大きな目標だしね?高橋先生には、み
んな期待してるんだから」
「例年通り、目の前のことに全力を尽くすだけです」
県内有数の進学校である浅葱西校も、他の進学校がそうであるように、進学実績と浪人生の問題に直面していた。進学校の多くは、学校の業績として大学への進学実績を挙げることが多いが、同時に浪人生も多くなる傾向がある。卒業生の四割が浪人する年も珍しくない。そこで浅葱西では浪人生の割合を減らすべく、教師達の中だけで今年度の目標が決められていた。
「そういえば、例の子達はどうだったの?」
「あぁ、時任と真田のことですか?」
「ずっと出してなかったでしょ?」
「こんな感じです」
高橋は手に持っていた四組の進路希望調査票の束の中から奏と真田のものを加藤に手渡した。
「時任君は進学だけど、これってどうなの?」
「正直、直接本人と話せていないので何とも言えないですね」
「彼の力からすれば、もっと上の学校狙えるわよね?」
「それは間違いないですね。ただ、たぶんあいつはまだ色々なことに対して真剣ではないと思います。周りのことにも、自分のことにも」
「でもきちんと話したこと無いのにそんなことわかるのかしら?」
加藤はひどく不思議そうにしている。
「まぁ、お恥ずかしい話ですが、私にも似たような時期があったもので」
高橋は側頭部の刈り上げ部分をポリポリとかきながら続ける。
「真田もそうなんですが、まだ色んな事がリアルでは無いんですよね。ただ、今まで何となく上手くやれてきてしまっているために壁にぶつかったことが無い。普通はもっと早い段階で壁にぶつかって現実がハッキリと見えてくるんですけどね」
「そうかしら。ひょっとすると彼らは実は一番痛みを知っているかもしれないわよ」
それじゃあお先に失礼しますと一礼し加藤は職員室を出て行ってしまった。
加藤の言葉の意味を推し量りながらも、二人の生徒についてはまだ注視しなければと結論付け、高橋は顧問を担当しているバスケ部が待つ体育館へと向かった。
「お疲れ様です」
高橋は体育館に入る手前で女子バスケ部の監督である橋本みのりに挨拶をされた。新卒三年目の若手である橋本は、経験こそ少ないものの、特に女子生徒からの信頼が厚い教師だった。
「お疲れ様。今日も女子バスケ部は気合いが入ってるじゃないか。声が外まで良く聞こえて
る」
新年度になってからの女子バスケ部は、大会等で目立った成績は残していないものの、高橋は明らかに以前とは違う何かを感じていた。
「やっぱりキャプテンの意識が変わったからじゃないですかね」
橋本はゲーム形式の練習をしているチームの中でひときわ大きな声を出している背番号四の方を見やってそう言った。
「三ツ村ですか?確かに良い選手だとは思いますが、そんなに変化があったんですか?」
高橋は少し怪訝そうな顔をしている。
「なんと言いますか、背中で引っ張るというか、姿勢が変わった気がします。上手くは言えないのですが」
少し言い淀んでいる橋本の横顔を眺めながら、高橋はまた少し自分が年齢を重ねていることに気付かされている気分になった。
「クラスで見せる姿と部活で見せる姿とでは、やはり違うものですね」
それを悟られないように笑ってごまかす自分にも少し嫌気が指す。
「でも正直、光が一番『賭けている』気がします。それに下級生も同級生も引っ張られているような気がするんです」
それを知ってか知らずか橋本は真っ直ぐに高橋の目を見つめていた。
「参りましたね。そこまでの熱量を持った選手は男バスにいるかどうか」
高橋は側頭部の刈り上げ部分をポリポリとかきながらそう言った。困ったときに咄嗟に出る癖だった。
「何を仰るんですか。今年こそ全国に、と先生も選手に檄を飛ばしているじゃないですか。そうじゃなきゃ監督が来る前にあんなにハードな練習してないですよ」
橋本の目線の先には男子バスケ部達が黙々と過酷なランメニューをこなしていた。一年生の中にはすでに三年生が行う練習の強度について行けず、肩で大きく息をしていたが、三年生は顔色ひとつ変えず大粒の汗を輝かせていた。その横顔は思わず戦士を連想させた。
「そうなんですが、なんと言いましょうか」
高橋は一瞬言い淀んだが、観念したように続けた。
「自ら望んで『やる』ことと、『やらされる』ことは、実際行動するという点では同じように見えますが、実は全く異なるんです。今の男バスを『させる』ことは出来る。でも、自ら進んで『やる』集団まで育て上げることが出来たか、というと何とも言えませんね」
予想外の返答だったのか橋本はキョトンとしていたが、妙に納得したような顔になって高橋の顔をのぞき込んだ。その表情はまるで少女のようだった。
「先生って思い入れのある生徒には厳しいですよね。光や男バスの生徒が羨ましいです」
「初めて言われましたよ。実際、まだまだだと思っています」
高橋はまた頭を掻いた。
「あと一ヶ月あります。全国まで行けばあと二ヶ月あります。そこまでに最高のチームを仕上げてください。楽しみにしています」
そう言い残すと、橋本は女子バスケ部の生徒達に小走りで次の指示を出しに行った。高橋は、何か忘れてはいけなかった感覚を思い出させれたような感覚になった。確かに、光や橋本の背中は男子バスケット部員のそれよりは小さかったが、高橋には不思議と数分前より一回り大きく見えた。
「集合」
体育館に響き渡る野太い声と共に、男子部員達が高橋を囲むように円陣を組む。三年生達は高橋が久々に見せる表情から、これから始まるハードな練習に対する覚悟と、何とも言えぬ喜びを覚えていたようだった。
「さぁ、男子に負けてらんないよ」
先に円陣が解けた女子バスケ部の先陣を切って光が部員を鼓舞する。きっと高橋や男子部員達から何かを感じ取ったのだろうと橋本は思った。それと同時に体育館の空気が熱を帯びていくのを感じた。