梅雨の月

六月 第三週

諭すように橋本が言葉をかけた後、沈黙が訪れた。体育館には武田のすすり泣く声だけが響く。
「一つだけ、良いでしょうか」
震えた声で光が挙手している。
「光、どうした?」
橋本が発言を許す。
「奈美、絶対に全国に行くから、連れてくから。絶対に治して」
そう言うと、光は声を殺して涙した。
「じゃあ、二年生。さくら6番、萌衣11番、晴香12番、以上」
橋本は淡々とメンバーを読み上げたが、二年生からは驚きの声が上がった。レギュラーメンバーの栗原さくら、中上萌衣、控えの篠宮晴香は順当に選ばれたが、前回の公式戦から三名がメンバー落ちしていたのだ。
「落ちたメンバーは、確かに、三年生より技術はあると思う。でも、本気でこのチームで勝ちたい気持ちがあるか、と言われるとそうではなかった気がする。そうね、沙樹、あんた『控えで選ばれる』って思ってなかった?この一ヶ月本気でレギュラーを獲りにいった?そこを重く考えました」
橋本は毅然と選考理由を言い放った。該当した三人は俯いていたが、不満そうな顔をしている者はいなかった。
「最後に一年。結美16番。綾17番、楓18番。あんた達は戦力としてみてるからね。」
四月の時点で物議を醸した、一年生トリオは実力的には順当にメンバー入りしたが、どこか複雑な表情をしていた。
「もしかして、自分たちで良いのかって思ってる?それを力に変える一週間よ。メンバー落ちした先輩の思いも、メンバーの先輩の思いも、あんた達は背負わなくちゃいけない。この三十六人の代表なのよ?その無い胸、張りなさい」
そう言うと、橋本はパンと手を一回たたいた。
「はい。しけた面はおしまい。ここからは先のことを考えます」
そう言ってミーティングは再開したが、光は少し不安だった。橋本が決めたメンバーに不安がある訳ではない。ただ、皆が同じ気持ちであるかどうか、チームとして同じ方向を向けているかどうかが気がかりだった。そのことがミーティング中も頭の中を駆け巡っていたが、ミーティング後の武田の一声でそれが杞憂だったことに気付いた。
「ほら!監督も言ってたでしょ?声出して!ウチらの良い所って何?元気じゃないの?そんなんじゃ私立に負けるよ?ウチを全国に連れて行ってくれるんでしょ?」
本当は、一番悔しいはずの武田が笑顔と涙でぐしゃぐしゃになった顔でチームを鼓舞する姿を見て、光は押さえていたものが堰を切ったようにあふれ出し、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。副キャプテンの白州はそれを見て爆笑している。
「みんな!写真撮るなら、今のうちだよ!すっげーおもしろい顔した光が撮れるよ!光にマウントとれるよ!特に後輩は今のうちだよ!」
橋本は笑顔で光の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「ほーら、皆わかってるよ。あんたがここ一ヶ月一人で背負ってきたもんを今度は皆で分担する番だよ。わかったら、各自自主練する者は、自主練する。帰って体を休める者は体を休める。さっさと行動だよ」
「はい!」
ここ最近で一番大きな声が体育館を包んだ。

 

 土曜日は、最近の曇り空と打って変わって、サラッとした風が吹く快晴だった。前日からテンポ良く続いた坂下との連絡は、待ち合わせの時間まで続いていた。奏が駅に着いたとき、坂下は既に改札の前で待っていた。
「お待たせ、待った?」
「ううん、今来たとこ」
バイト先に来る服装とはひと味違った坂下の装いに、奏は少し気恥ずかしさを感じた。また、先ほどまで液晶上では気兼ねなく冗談を言い合えていた相手を、急に異性として意識し出す自分にも戸惑いを覚えていた。
「そういえば今日って何観るの?」
「んー。時任さん好きかわかんないけど、金子美咲が出てる最近やつ、知らない?」
「あの今流行ってるやつ?」
「そうそう。『君、繋ぐ』ってアレ」
それは中高生を中心に話題の、学校を舞台にした若い男女の恋愛ものの映画であった。奏は正直、ヒロインが難病を抱えているという設定を好きになれずにいたが、坂下と真田の件があった後ということもあり、ひとまずは坂下の意見に乗っかってみることにした。
「いいよ。気になってたし」
「え?時任さんってあんなベタな感じの苦手だと思ってた」
普段と少しメイクも違う坂下は、確かに可愛かった。隣でゆるゆると笑う坂下のことを、奏は少しずつだが確実に意識し始めていた。
 駅から映画館が入っている複合施設まで、二人は他愛のない話をしていた。端から見ると恋人同士ともとれる二人の距離感や佇まいは、地方都市の土曜の昼下がりとは微妙にミスマッチだった。複合施設に着いた後、映画の時間まで少しあったため、二人は映画館がある一つ下のフロアのカフェに入った。
「今日は奢るよ。なんだかんだ俺の方が年上だし」
「なんか今日カッコイイじゃん、時任さん」
「うっせー。いつもだろ」
「この前まで良くわかんないタメ口敬語だったくせに」
光以外の女子とこんな軽口を叩き合うことを、奏は想定していなかった。奏は向かい合って座る坂下の事を今日初めてまじまじと見つめたが、あることに気がついた。キャラメルマキアートのカップを掴む坂下の手は白く透き通っていて、整えられた爪はよく手入れされているカトラリーのようにキラキラと輝いている。何度も突き指を繰り返し、常に何処かにテーピングが施されている光のそれとは大きく異なっていた。
「その爪、自分でやってんの?」
「あ、ネイル?そうそう。私ネイリストになりたいんだよね」
「そうなんだ。初めて聞いた」
「絶対嘘。初めて会ったときに絶対言ってるよ。興味なかっただけじゃない?」
坂下は少し残念そうにため息をついた。
「学校に行かなかったのも、早く自分で稼げるようになりたかったからなんだ。親と折り合い悪くてさ、中学の頃にネイリストになりたいって、親に言ったら認めてくれなくて。高校出て専門学校行くなら、高校にかかるお金もったいないって言われちゃってさ」
「そっか。でも、公立に進めばよかっただろ?」
「うわ、でた。西高生にそれ言われると、嫌味にしか聞こえないんだけど。ウチ貧乏だったから塾とかもいけなくてさ、千絵頭あんま良くなかったし。それにただ三年間、『繋ぎ』みたいに高校で過ごすのって、何か違くない?って思っちゃったんだよね」
奏にとって、自身と同じように、無為に時間を消費するためにコンビニでアルバイトをしているはずだった坂下が、急に別人のように見えてくるような感覚になった。
「それじゃあ、専門の学費も自分で払ってたりするわけ?」
「そうだよ?だから毎月、結構カツカツ。でも、ちゃんと資格とれたらサロンで働けるからあと一年の辛抱かな。そしたら実家も出れるし」
自分の夢を語る坂下は、光や拓巳と同じ眼をしていた。いや、それよりももう一つ深みがあったかもしれない。奏は、出来ればこの話題が自分に回ってこない事を祈った。
「おし。じゃあ、先輩が映画代も出してやろうじゃないか」
「あ。今まじめな話してたのに。でも、千絵から誘ったのに悪いな」
「あんな話聞かされて、じゃあワリカンな、なんて言えるかよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな、先輩。うわ、何か時任さんを先輩って言うと気持ち悪いな」
「お前、前から思ってたけど、失礼すぎないか?」
坂下はまたゆるゆると笑っていた。
 カフェを出た二人は映画館に向かった。上映から二ヶ月が経過していたこともあり、『君、繋ぐ』のスクリーンは空いていて、ほぼ二人の貸し切りだった。時刻は14:40—女子バスケ部の初戦が始まろうとしていた。映画の内容はというと、王道の青春ラブストーリーで、坂下は終盤涙を流していた。奏には、暗闇の中でスクリーンの光に照らされた坂下の頬を伝う一筋の線が、雲間から差し込む薄日のように見えた。自分の夢を語ることも、人目を気にせず映画で涙することも、今の奏には東大に合格するよりも難しいことだと思えた。しかし、目の前の美しい年下の少女は、目の前でそれらを事もなげにやってのける。奏の心は大きくかき乱されてゆくのだった。
奏が家に帰ると、ポケットの中の液晶が二度震えた。一度目の主は、先ほどまで一緒に居た、坂下からの丁寧なお礼だった。奏は、こちらこそと返事をしそうになった親指を止め、二度目の主を確かめた。光からの、初戦突破の報告だった。『おめでとう。明日も頑張れ、応援しに行く』とだけ返事をし、奏は浅い眠りについた。