曇天模様

五月 第四週

 
 結局、次の回からは唐澤が好リリーフを見せスコアボードに0を並べたが、浅葱西の必死の反撃も及ばず、浅葱西は一点差で涙をのんだ。光は、明日のリーグ戦に向けて練習する、とだけ告げて、先に市民球場を後にしていた。
『さくらいで待ってるわ』
『わかった。ミーティング終わったら向かう』
そう表示された液晶を握りしめて、奏は球場の並びにある古びたお好み焼き屋に一人佇んでいた。
「おう」
野太い声が奏を呼んだ。
「遅ぇよ」
「仕方ねぇだろ。今日負けたんだから」
仏頂面を携えた大柄な男は鉄板を挟んで奏の正面にドカッと座り、おばちゃん、いつもの二つと初老のふくよかな女性に声をかけた。
「お前から試合後に用があるって事は、お説教か?」
テーブルの上に置いてあった、既に汗をかいているコップを傾け、一気に飲み干した後、二杯
目を注ぎながら拓巳はしっかりと奏を見据えた。
「なんで真っ直ぐを投げさせた?サインは違ったはずだろ?」
「あいつにとってはストレートが一番良い球なんだ。その球を打たれた。しょうがないだろ」
「お前はそう思ってなかったはずだ。だから要求したのは変化球だろ?それに首を振って打たれた。実際、唐澤は一回もお前のサインに首なんて振らなかった。それで打たれたのか?」
拓巳は、奏の追求をはぐらかすかのようにもう一度グイッと冷たい水を流し込んだ。
「藤村はまだ若いんだよ。夏の予選までには大丈夫だ」
「シード権は失ったぞ」
「うるせぇな。わかってんだよそんなことは。唐澤もお前も何なんだよ。そんなに俺の事が気にくわねぇのかよ」
明らかに拓巳は苛立ってる。
「違う、拓巳。お前のことを尊敬してるし、信頼してるからこそ、だ。なんで藤村を好きに投げさせてるんだ。足下掬われるぞ」
「確かにあいつは真っ直ぐにこだわってる。気持ちよく投げさせるのもキャッチャーの仕事だろ?」
「それは建前だろ、拓巳。あいつはただ見せつけるために投げてるようなフシがあるよな?」
「おまちどー。豚玉ダブルが二つねー」
先ほどの初老の女性が掌四つ分はあろうかというお好み焼きを二つ、拓巳と奏が向かい合った鉄板の上に置いた。拓巳の表情は、正直助かったとでも言いたいようなものだったのを奏は見逃さなかった。
「夏は藤村で行くのか?」
「そんなの俺に決められるかよ。監督さんが決めることだ」
「でもお前の意見は多少通るだろう。勝てるのは唐澤だ。それはお前もわかってるんじゃないのか?」
鰹節が踊るお好み焼きをじっと見つめ拓巳は絞り出すように言った。
「実際に、球を受けてるとわかるんだよ。今は明らかに藤村の方が良い。この春からは特にそうだ。そしてあいつはまだまだ伸びる。ひょっとしてプロになっちまうのか、とも思う。実際にあいつ以上の球放るやつ、甲子園にもなかなかいなかった」
「そこまでか」
奏は自信が想像していた何倍も拓巳が藤村をかっていることに驚くと共に、拓巳が抱えている悩みの深淵を見たような気がした。二人は無言でお好み焼きを食べ始めた。そこから拓巳の頂きますと、やっぱうまいなという言葉以外は、テレビから流れるワイドショーと換気扇の音だけが流れていた。食べ終わり、一息ついた頃、重い口を開いたのは奏だった。
「藤村と上手くやれてんのか」
「あぁ。それなりには、な。ただあいつはマウンド、それも試合になると人が変わったみたいになっちまう。あぁなるとどうしたらいいかわかんねぇ。実際、今日も打たれるとは思ってなかったんだ。何故か受けてるとそう思っちまう。唐澤やお前からみるとあり得ないんだろうがな」
「正直驚いた。お前が冷静さを欠くこと自体珍しいのに」
「あぁ。自分でもわからない。でも不思議とあいつのピッチングは皆を巻き込んじまうんだ。唐澤とは違う方向でだけどな」
「でもそれはギャンブルだぞ?最後の夏、それでいいのかよ」
「良いわけ、あるかよ。だから今こっちだって必死にやってんじゃねぇかよ」
拓巳の掌は硬く握られていた。
「見てるだけのお前にとやかく言われたくねぇよ」
「あぁ。わかった。ただ、藤村とはしっかり向き合えよ」
「言われなくてもやるっての」
拓巳は千円札をテーブルの上に置き、ごちそうさまと初老の女性に告げてから席を立っていった。奏は少しうつむいたまましばらく動けずにいた。

 週が明け、学校が始まると三人はいつもの三人に戻った。互いに冗談を言い合い、同じ青春
を共有しあうクラスメイトに戻っていた。
「あー。もうすぐ中間試験かー」
光は枝毛を弄りながら退屈そうな顔をしている
「大会前はやめて欲しいよな」
掌の硬球をこねくり回しながら拓巳は、答える。
「そういえば、女バスは今週末リーグ戦だっけ?」
奏は、掌の液晶を眺めながら、なかなか会話に入ってこようとしない。
「そうそう。リーグ中だからなかなか勉強に集中出来ないよね。なんなら、野球部と違って本気で勝ちに行かないとシードなんて夢のまた夢だし」
「なんだよ。嫌味かよ」
「違うよ!そういうつもりで言ったんじゃないってば」
「わかってるよ」
光と拓巳がいつも通りの会話を繰り広げている中、奏は妙な疎外感の中にいた。
「練習あって観に行けないけど、頑張れよ」
どうして、今の自分にはこの言葉がすんなり出てこないのだろう。この前の拓巳とのことでわだかまりがあるわけではない。部活の話だから、話の輪に入れないわけではない。この時、奏はまだ答えに辿り着けていなかった。ただ、言うなれば定期試験の話も、部活の話も、奏
には当事者意識が無いのだ。自分のことであって、何処か他人事のように感じてしまっているのだ。良くいえばクールともいえるのかもしれないが、奏は光や拓巳との温度差をひしひしと感じていた。何度も何度も繰り返してきた日常が、急に遠い事のように感じられ、何故か二度と来ないような気がする—。すぐそこに迫った露の訪れを、少し湿った空気で感じる午後。そんな感覚に奏は包まれていた。