終之棲家
二月 第二週
光にとっては、主語を自分に変えるだけでものすごい難題に生まれ変わる。さらに言えば、これはある種、答え合わせのような作業かもしれない。返答によっては『勝ち目』が生まれるかもしれないし、気持ちを隠しておくことも出来る。どんな状態でも自分が有利な状況に持っていける、言わば後出しじゃんけんのような切り札を隠し持てる狡い質問だ。無意識にこんな『女っぽい』質問がふっと頭の中に浮かんでくる自分がもはや少女ではなく、一人の女になろうとしていることを光は感じた。
「そうだな。何を迷ってるんだろうな」
そんなことを考えていると、ぽつりとこぼれた奏の落ち着いた声で光はハッとした。まるで何処か遠くを見つめるような奏の眼差しは、愁いを帯びているようだった。
「好き、なんだよね?」
「たぶん、な。でもなんか好きってよくわかんねぇ。確かに、千絵と一緒に居れば楽しいし、一緒に居たいとは思うんだけど、なんて言えば良いんだろ。同じ方向を向いて同じ歩幅で歩いていけるイメージっていうのか?それがいまいち湧かないんだ」
「それは千絵ちゃんが浅葱に拘ってるのが原因なの?」
「いや、たぶん違う。なんていうかそんな論理的な理由じゃなくて、もっと感覚的なものだと思う」
じゃあ私なら?そう、問うことが出来ればどれほど楽だろうか。
「そっか。じゃあ、さっき言ってた東京と浅葱だから離ればなれになるっていうのは、あんまり関係ないのかもね」
自分がどんどん狡い人間になっていくような感覚をはっきりと感じる。別に千絵という人間に何か恨みがあるわけではないのだが、なんとか奏のこの気持ちをダメにしてやりたいのだ。きっと千絵は自分が知らない奏の横顔をたくさん知っている—。
「そう、かもな」
奏は絞り出すように呟いた。その横顔を眺める拓巳の表情は、光には、どこか達観しているようにも見えて、恐らく拓巳は今ここに居る誰の味方でもなく、どんなことが起こっても、どんな結末になろうと、ただありのままを受け入れる準備をしているように見えた。しかし、そこに冷たさを感じないのは拓巳という人間をよく表していると感じた。
「じゃあ、もう答えは出てるんじゃない?」
「でも、そんなに焦ることでもないと思うし・・・」
やはり、奏の返事はどこか歯切れが悪い。
「でも、そのぶん千絵ちゃんはきっと悩むし、苦しいと思うよ?」
「だから!今のありのままを話そうって、そうなってるじゃねぇか!」
奏にここまで感情をむきだしに対応されたのは小学生ぶりかもしれない。
「じゃあ今すぐそうすれば?もう知らない!」
「なんでさっきから光がイライラしてんだよ?」
「そんなの知らないよ!バカ!」
机に散乱していた筆記用具や課題を乱暴に鞄に詰める。自分でもなんでこんなに感情的になっているかわからなかった。でも、一度堰を切ってあふれ出した感情は簡単に収まることはなかった。怒り?悲しみ?絶望?どれもしっくりとはこない。そんな簡単な言葉で表すことが出来るほどこの感情は安くない。ただ、少しでも気を抜けば溢れそうになる涙を堪えるので必死だった。
「おい!光!待てよ!」
奏が慌てて席を立つのが気配でわかる。恐らく拓巳はその場を動いていないだろう。振り返るもんか。このままだと文字通り完敗だ。声がひっくり返らないように精一杯大きな声を出す。
「嫌だ!奏の好きにしたら良いじゃん!もう知らない!」
そこからどうやって家に帰ったかは、正直あまり覚えていない。ふと我に返ると、拓巳からの着信が残っていた。恐らく、奏には拓巳から今日は連絡するなと牽制が入ったのだろう。どこまでも拓巳らしくて、気分は最悪のはずなのに、思わず笑みがこぼれそうになってしまう自分がいた。そして、ふと一息ついて携帯に目を落としたとき、あることに気がついた。自分は今までショックなことがあったり、嬉しいことがあったり、何かある度に奏にいの一番に連絡していたということを。
「こういうときって、誰になんて言えば良いんだっけ」
一人の部屋でポツリと呟いた言葉は、思ったより響き、孤独な気持ちに拍車を掛けた。ピンに連絡するのは違う。きっと傷口に塩を塗り込まれて、バスケに集中しろだの何だの言われるのがオチだ。かといって拓巳に話すのは違う。これはあくまで奏と自分との問題であって、三人の問題では無い。バスケ部のチームメイトは?大事な試験前の時間を使わせるのは違う。まずは、何となく奏に謝らなくてはならない気がしていた。
『奏、今日バイトって言ってたっけ?』
『あぁ。落ち着いたか?』
『うん。ちょっと行ってくるね』
『今日は、ゴメン。巻き込んじまった。』
気にしてないよというニュアンスのふざけたネコのスタンプを送り、拓巳とのメッセージのやりとりを終える。根拠はないのだが、制服で会うのは嫌な気分になり、久しぶりに私服で奏の前に姿を現すことにした。お節介なピンが東京に出て来るのには、最低限これぐらいの格好はしろということで、駅に向かう途中にあった東京の本屋でファッション雑誌を買わされていた。それを参考にしてネットで買っていた服が一昨日届いて、段ボールのまま放置していたのだ。それを開けて包装をとき、袖を通した。恐る恐る立鏡の前に立つと、以前見た千絵のようなスタイルには及ばないにしても、浅葱ではかなり垢抜けた格好をしている自分が映る。以前、OG達が口をそろえて、ファッションや化粧は早めに研究を始めた方が良いと力説していた意味が少しわかったような気がした。『こんなもので』と言ってしまえば大きな角が立つのであろうが、自分の気分も、周りからの見え方も大幅に変わるのであれば、確かに上手く扱えるに越したことはない。普段被り慣れない帽子も初めて意味のあるものに思えた。
いつも通り、玄関の靴棚の上から自転車の鍵をとり、ドアを開ける。ふと立ち止まり、もう一度、玄関に備え付けてある鏡で全身をチェックする。これにママチャリは、NGだ。普段なら自転車を漕いでいく距離だったが、今日は電車を使うことにする。駅までの道中、冷たい空気に頭がどんどんクリアになっていく。
『謝って何になるの?自己満足?それとも少しでもいい女ぶりたいってわけ?』
『いや、そうじゃない。とりあえず、今は会ってみないとわかんない』
自問自答が始まる。幼い頃からの癖だった。緊迫した試合中、音楽のリコーダーのテストのときなど、緊張感が高まると自然ともう一人の自分との対話が始まるのだった。
『さっき奏に、どうしたいかじゃない?って偉そうに言ってたけど、自分はどうなの?』
『そんなのわかんないよ。自分でも自分のこと良くわかんなくなってんのに』
『奏もそうなんじゃない?』
『でも・・・奏はさっき向いてる方向が違う、みたいなこと言ってたし』
『じゃあ、あんたはどうなの?同じ方向、向いてるっていうの?』
『そんなのわかんないよ。でも、少なくとも一緒に居た時間は誰よりも長い。そして誰よりも奏の事を知ってるつもり。私は私の強みで勝負する』
『何それ、全然答えになってないけど、まぁいいわ。お手並み拝見といこうじゃないの』
『良いから黙ってみてて』
そんな、通常他人には到底理解出来ないような工程を経て、奏の働くコンビニのすぐ近くまで来た。今までそんなに頻繁に来ていたわけではないが、何にも頼らずとも到着してしまうあたり、やはり奏の事になるとなかなかに記憶のキャパシティを割いていたのだと、冷静になった今だからこそ感じる。
暗闇の中煌々と光るコンビニの窓ガラスに映る自分には、やはりまだ慣れなかったが、そこには流行の服を着こなしている自分が居る気がした。外からレジの方を覗いても奏らしい人影は見えず、店内には見知らぬ若い大学生風の眼鏡を掛けた男が暇そうにしているだけだった。休憩中かもしれないと思い、スマホを手に取ってみたが、ここで連絡してしまっては、直接会いに来た意味が無い。少し遠目にみて、奏が休憩から戻ってくるのを待つことにした。
もし、バスケをしていなかったら、浅葱西に通っていなかったら、バイト中の男の子をこんな風に待つというしチェーションがもっとあったんだろうか?ふとそんなことを考えながら、かじかむ手を合わせる。手袋なんて部活のロードワーク中の防寒用のスポーツブランドのものしか持っておらず、今日の格好にはミスマッチもいいところだ。かじかんだ指先には突き指の痕や細かい傷があり、爪にはボールが当たった衝撃で白く変色してしまった部分が所々にある。お世辞にも女の子らしい綺麗な手とはいえない。光は、数回しか見ていないが、いつもつやつやとした可愛いマニキュアを小さく白い手に携えた千絵が、光の持っていない全てを持っているような気がした。
15分経っても奏は出てこなかった。ピンが言う『寒さを犠牲に華美に作られた服』ではこの寒さを凌ぐのは流石に厳しいように思えた。いっそのことあの大学生風の男に奏の所在を聞こうか?という考えが頭によぎった瞬間、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「だから、俺、どうすれば良いのかなって・・・」
光は、時間を潰す間コンビニの前ではなく、斜向かいの郵便局の軒下に居たのだが、どうやら奏はその隣のたこ焼き屋の軒先にあるベンチに座り、誰かとたこ焼きをつついているようだった。郵便局とたこ焼き屋の仕切りにはレンガの塀になっており、恐らく奏はこちらに全く気付いていない。考え事をしていたからか、全くそのことに気付かず、今出て行くと図らずとも会話を盗み聞きしていたような状況になってしまうため、光は動けずにいた。
「そんなもん、俺に言われたってわっかんねぇよ」
どうやら奏の会話の相手は老人男性のようだった。光は何故かこのしわがれた声に聞き覚えがあり、また、独特のイントネーションにどこか懐かしい気持ちになっていた。
「店、戻らなくていいんですか?俺もう食べ終わりましたよ」
「あぁ、気にすんなっての。裏入ってくるなり、すげぇ顔してんだもんよ。そら、心配にもなるっての。ホレ、自販機でコーヒー2つだ」
塀越しに奏が自動販売機に小銭を入れるのがわかる。
「温かいのと、冷たいのは?」
「あぁ、俺は冷たいのだ」
「真冬ですよ?相変わらず変わってますよね、監督」
「俺はコーヒーはいつも冷たいのだ。全く、拓巳はすんなり一発で覚えやがんのに、時任はいつまでたってわかりやしねぇ」
そうだ。奏の事を名字で呼ぶのは、学校の先生と中学時代の野球部の監督だった、三田村以外にはいない。つまり、この老人は、奏が勤めるコンビニのオーナーでもある三田村真三だった。三田村はよく拓巳の事は褒め、奏の事はどれだけ活躍しようと問題点を指摘し続けていた。全く対照的な扱いの二人であったが、光の目からみれば二人とも等しく三田村に愛されていたように感じる。奏はよくつまらない理由で三田村に罰走を命じられていたが、罰走を行うときの奏の表情は神妙で、納得がいってない様子が一切無いのが印象的だった。きっとこの監督のことを心から信頼しているのだと、光は当時そう感じていた。
「そりゃあ悪ぅござんしたね。拓巳みたいに出来が良くなくてね」
「本当だよ。あいつは気がつけば甲子園にも出て、テレビのインタビューの時も俺の名前をわざわざ出してくれるような孝行者だよ」
ガハハと笑う三田村はまるで酒でも飲んでいるように上機嫌であった。
「いや、でもあいつやっぱりすごいっすよ。俺じゃ絶対に甲子園なんて届いてない」
「なーに言ってんだお前。中学の頃まではお前がまだ引っ張ってただろうが、それが何の相談も無しにころっと辞めやがって」
「いや、だから前に言ったかもしれないですけど、俺はあの時もうやりきったと感じてたんですよ」
「それが次に会ったタイミングには『監督のとこでバイトさせて下さい』だもんな。たまげたもんだぜ全く」
「はい。すみません。今になって冷静に考えたら、筋が通ってないっすよね」
「まぁ、でもそんなもんなんだ時任。たぶん人間ってのはな、大事なもんであれば大事なもんであるほど、その時には大切さになかなか気付けないもんなんだよ。だから毎日をある程度大切に生きなきゃなんねぇ。そりゃ何事もバランスだ。毎日ノーアウト満塁を背負えって事じゃあない。この意味、わかるよな?」
「はい。ここ一年でよくわかりました」
「何か今日はえらく、しおらしいじゃねぇか。張り合いがなくてつまんねぇな」
ふう、とひとつ大きなため息をついて三田村は続ける。
「でもなぁ、俺はさっき時任と話しててな、一個気付いちまったことがあってな。どうだ?ん?お前に任せるけど、聞きたいか?お前のそのもやもやの正体。自分で原因見つけて解決したいって言うんなら、たぶん聞かねぇ方が良いぞ」
「教えて欲しいです。全く見当もつかないんで」
「そうか。じゃあ覚悟して聞けよ。そうだな、例えば拓巳だ。なんであいつはまだ野球やってんだ?甲子園も出て、有名人にもなって、もう十分なはずじゃねぇか」
「野球が好きだから、ですか?」