終之棲家

二月 第一週

終之棲家

 浅葱の冬は厳しい。雪が降ることは珍しいが、山がちの地形と相まって厳しい北風が平地にも強く吹きつける。少し高台にある浅葱西高にもこの冷たい風は吹くのだが、今年は別の意味で凍てつく風が吹き荒れてていた。共通試験の各科目の出題傾向が大きく変わった今年、多くの生徒が模試よりも成績を落とし、受験校の再考を強いられていた。2月は逃げる月とは良く言ったもので、受験生にとってこの2月は特に慌ただしく、彼らは過ぎ去る日々をとにかく有効に使う術を画策するのだった。共通試験で模試を含め過去最高点を取った奏も、例に漏れずその一人であった。
「そういえば、お前3月から宮崎だって?」
奏は放課後の教室で、視線を黒板に残したままシャープペンシルをくるくると回して、横の席の机に浅く腰掛ける拓巳に向けて言葉を投げかけた。
「あぁ。春季キャンプに呼ばれたからな」
キャッチャーミットに薄くオイルを延ばしながら拓巳が答える。
「キャンプってプロっぽいよね。社会人野球のチームと試合したりもするんでしょ?」
光はといえば、拓巳の後ろの席で大学から事前に課されていた課題に悪戦苦闘していた。集まろうと計画したわけではなかったが久しぶりにタイミングが合い、この3人がゆっくりと教室に集まったのだった。
「そうだな、春季のリーグに向けて春休みに野球漬けになるためにって感じかな」
「もしかして、だけど加奈ちゃんも宮崎に行ったりするの?」
光は半分冗談、半分本気でおそるおそる聞いてみた。
「まぁ、そうなるかもしれんな」
カランと乾いた音が響く。あまりの驚きに奏は回していたペンを落としていた。
「は?マジかよ?やっぱ加奈ちゃん家ってえぐい金持ちなんだな?」
「来るなっては言ってるんだけど、高校の友達と卒業旅行も兼ねてって言ってるから何か断り辛くてな」
「嫌ーな先輩に見つかってこっぴどく絞られちまえば良いのに」
「奏はまたそんなこと言う。でも本当だよね。ちょっと驚き」
「まぁアイツも遊びに行く訳じゃないのはわかってるとは思うけど・・・」
「まぁ拓巳と加奈ちゃんなら大丈夫だろう。それよりも最近お前ら週末ずっと東京に行ってるよな?」
「あぁ。チーム練習に合流させてもらってるからな」
「最近お前がどこに居るかは加奈ちゃんのインスタで把握できるからな」
「それちょっとわかる気がする。拓巳はそういうSNS全然やらないから」
「こうなるから、苦手なんだよな」
拓巳はやれやれといった表情でミットを机の上に置いた。
「そういえば、奏、お前高橋先生から国立勧められてなかったか?結局受けるのか?」
拓巳はミットを乾拭きするためのタオルをスポーツバッグから取り出すために屈みながら奏に問うた。
「んー。正直全然考えてなかったし、二次対策も全然間に合わなさそうだからな。初めから共通試験は共通試験利用でどこか押さえの学校に引っかけるために受けたようなもんだし。それが偶然はまっちまって国立受けられそうな結果になったっていうだけだからな」
「でも、押さえの学校は取れる予定なんでしょ?良かったじゃない」
明翔大の共通試験利用の合格予想ボーダーを奏の点数は軽く上回っていた。光はその知らせを聞いたとき、正直に嬉しかったと同時に不安もよぎっていた。地元の国立大学であれば、十分に難関学部でも通用する点数でもあったために、奏が浅葱に残るかもしれないと頭の隅にちらついたからだった。
「まぁな。でもこれだけ頑張って光と同じっていうのはちょっと・・・な」
「何よ、失礼ね。明翔大だって十分難関校になる位置づけよ?」
「まぁまぁ光、落ち着けよ。奏がそう言いたい理由も少しわかる気はするぞ」
「な、拓巳まで!」
「まぁでも国立はないのか。じゃあ東京は決まりか?」
「そうなるな。俺は慶王じゃないとあんまり意味はないとは思うけど」
「そしたらいよいよあと二週間ってとこ?やっぱりまだバイトは続けるの?」
光は奏がいくら大丈夫だと言っても、やはり勉強時間は少なくなるため、奏にバイトをセーブして欲しかった。
「あぁ。やっぱりなんか、いつも通りがいいんだと思う。バイトしてない方がいつもと違ってなんか気持ち悪い。それに共通試験もバイトやりながらだったんだ。今度も大丈夫だ」
「ははーん。そこまで意固地になってるってことは、バイト先にかわい子ちゃんでもいるな?」
拓巳はニヤニヤしながら奏の出方を伺っている。奏の表情が僅かだが曇る。光はそれを見逃さなかった。
「え?なになに?前に拓巳と一緒に奏の様子を覗きに行った時に見た、坂下さん?あの子すっごく可愛かったよね!?」
「千絵はもう辞めたよ。そしてそんなんじゃねぇよ」
奏は少しムッとしながらぶっきらぼうに答えた。光は恐らくその苛立ちの矛先が拓巳に向けられたものだということを肌で感じていた。
「なんで怒ってんの?」
「だからそんなんじゃねぇって」
「可愛かったよね?って確認しただけなんだけど」
奏は黙ってしまった。光が今までに経験がしたことがないほど重い空気が流れる。
「お前もそろそろハッキリしなきゃいけないタイミングなんじゃないのか?」
拓巳の乾いた声が響く。
「何が?」
奏の声からはまだ刺々しい雰囲気がにじみ出ていた。
「返事だよ。もう答え出てるんじゃないのか?」
光は自分の窺い知れない場所で話が進んでいることを感じた。
「だから、何の話だよ?」
奏は明らかに苛立っていた。
「加奈と千絵ちゃんが仲良くないとでも思ってるのか?あの夏祭りの後、二人はよく連絡取り合ってるんだ。加奈は千絵ちゃんが何か相談事があると頼ってくれるって言って、妹が出来たみたいだって喜んでたよ」
「なんだよそれ?三人で裏でこそこそやって、俺がどうするか、楽しんでたってことかよ?」
「お前、今なんて言った?どうしてお前はそうなるんだよ。いくらお前でも今のは許せねぇ」
拓巳は今にも奏の胸ぐらを掴み、殴りつけんとする剣幕だ。
「千絵ちゃんがどんな気持ちで浅葱に残るってお前に伝えたか、わかってねぇのか?そんなわけねぇだろ」
拓巳の表情には怒りも憤りも悲しみも無念も色々な感情が綯い交ぜになり滲んでいた。光はその表情を見ると全容はわからないにしても、どんな事が起こったのかを予想することはできた。奏は黙ったままだ。その様子を確認して拓巳は重い口を開く。
「お前、あれからあんまり連絡取ってないよな?」
奏の沈黙は続く。
「おい。答えろよ」
光は自分がいるから奏が話せないのではないのか、とも考えたが、拓巳から伏し目がちな奏の目線がないことを確認してから目配せがあったため、拓巳はここにいて欲しいのかも?と考え、その場を動けずにいた。
「あぁ。してないな。決まってから連絡するって言ってあるし」
奏の声は微かにだが震えていた。
「だから、もうお前の中では答え出てるだろ」
間髪を入れずに拓巳が切り返す。
「でも、まだわかんねぇし」
「それって誠実なのかよ?ちゃんと向き合ってるのかよ?」
拓巳の声が打って変わって落ち着き、諭すような優しさがあるようにも思えた。
「千絵ちゃんはお前にありのままをぶつけたはずだぞ?それをお前の都合でなんとなくうやむやにしてるだけだろ?弄んでるのはどっちだよ」
 俯き続ける奏を悲しそうな表情で拓巳が見下ろし続けるこの構図になって、どれぐらい時間がたっただろうか。光は、拓巳がなぜこのタイミングでこの話題を切り出したのかわからなかったが、何せ不器用な男だ。当初、何か意味があるのだろうと感じていたのだが、今となっては拓巳の目的の方に興味があった。
「落ちたら、東京に行かないなら、浅葱にもし残ることがあるなら、付き合おうとか、そういうこと考えてたのか?」
「いや、そうじゃない」
「だよな?」
「なんか、いろいろあったんだよ、ここ何ヶ月か。頭の中グッチャグチャでさ」
「あぁ。光も俺も知ってる」
「でもそうなったのは拓巳、光、二人もそうなんだけど、真田、千絵、みんなのせいなんだ。いや、せいってのは違うな。なんて言えばいいんだろ。おかげとも違うけど、少なくともお前らが居なかったら、こうなってないんだよ」
「あぁ。何となくわかるよ」
光はこの一年間、いろいろな奏の表情を見てきたが、今日の奏の横顔は初めて見たものだった。そしてこの一年は、なんとなく幼い頃から一緒にいて、多くを知っているつもりだったのに、まだまだ知らないことがあるということを思い知らされた一年でもあった。また、そのことに気付いたのは奏より拓巳に対しての方が早かった。拓巳はもうずいぶん前から光に対して光が知らない表情を見せていた。
「なんか、お前らを見てるとさ、自分ともっと向き合わなくちゃって思ってさ、それで色々わーって今までやってきたんだけどさ、なんて言うか、お前らに負けないように」
「勝ち負けとかじゃないんだけどな」
奏は静かに頷いた。
「変な意地みたいなの張ってさ。そしたら、浅葱の町と生きてくことを決めた千絵と、同じぐらいの覚悟を持って東京に行った時に、答えを出したいなって思ってたんだ」
「自分勝手だな」
「あぁ。今考えればそうだな。入試が終わったら返事するって言ったし、なんか、それも引っかかってて」
「ありのままを話せばいいんだよ。ここ最近、お前はありのままを出してただろ?それを、人に対してもやればいいんだよ。そうやって誠実に向き合ってれば大丈夫だ。そりゃ時には意見が合わなくて、死ぬほどムカついて、そんな時もあるよ。でも俺はそういう相手がいてよかったって、本心からそう思う」
なんとなく光は、拓巳はそういうことを加奈と重ねてきたのではないかと感じた。そして、加奈は拓巳のいろいろな表情をこの世で一番知っているのではないか、とも考えた。きっとそれは拓巳を想う上で、何よりも重要なことではないかー。
「だから、お前は今のを千絵ちゃんにぶつけてみたらいいんだ」
「そんなこと、俺にできるか?」
「少なくとも、千絵ちゃんはお前にやったぞ。泥だらけになってもな」
拓巳は少し悪戯っぽく笑った。
「な、お前!何でそんなことまで!」
奏は耳まで赤くなるようだった。昔から拓巳はこの間合いの取り方が抜群に上手かった。光はたまに、奏とは違うこの拓巳のかわし方に拓巳が元来持つ優しさのようなものを常々感じていた。このワンクッションが入ることで、奏は確実に救われた。そんな気がした。
「まぁ、確かにそうだな。今の状況とか気持ちとか率直にぶつけてみようと思う」
「どうするの?」
ずっと黙っていようと思っていた気持ちとは裏腹に言葉が不意に溢れた。
「うーん。言葉にするのは難しいけど、待ってて欲しい、かな」
「何を?」
「いろいろ整理するのを、かな?」
「でも慶王に受かれば、慶王に行くんだよね?千絵ちゃんは浅葱に残るんだよね?」
「それを含めて、だな。どちらにせよ俺がどうなるか決まらない限りは話できないだろ?」
「奏がどうなるか、じゃないでしよ?奏がどうしたいか、じゃないの?問題はそこだよね?結局わかってないじゃん!」
両掌に鈍い痛みが走る。気がつけば掌に爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
「もし、きちんとお互いのこと話して、例えば離れててもやっていけるとかだったら、話変わってくるだろ?」

『何それ、勝ち目無いじゃん』

思わず心の声が漏れてしまいそうだった。以前にも感じた敗北感。そう、きっと役回りが違うのだ。所詮、幼なじみという役回りを18年間演じてきたに過ぎなかったと思うと、光は一気に目の前が暗くなったような気がした。このまま、慣れ親しんだ役を演じ続けるのか、それとも別のものを自ら掴みに行くのかは、この数秒では判断できないような気がした。しかし光は同時に、だからこそ拓巳はこの場所に居合わせるように仕向け、その決断を下すように迫っているような気がした。
「そう、だね」
この質問は少し意地悪になると思ったが、そう思う前に光の口から言葉が溢れた。
「今、奏は何を迷ってるの?」