終之棲家

二月 第三週

「好きなだけであそこまでやるかよ。むしろ好きであればあるほど、向き合えば向き合うほど好きとは違った感情が生まれてくるってもんだ」
「じゃあ、たぶんですけど、それは拓巳にじゃないとわかんないと思います」
「ほう。半分合ってて半分合ってないな。悪くはねぇぞ」
コーヒーを一口飲んだのだろうか、一瞬の間が空く。恐らく奏がそうであるように、光も三田村から次に発せられる一言に集中していた。
「お前は中学の頃何で野球をやってたんだ?練習、しんどかっただろう?俺もお前にはだいぶん理不尽なこと言ってやらせてきたはずだ。根を上げて辞めても全然おかしくねぇ。むしろこのご時世だ。続ける奴の方が少数派だろう。その中で、何でお前は野球、やってたんだ?」
光は自分にも問われているような気がした。何故、自分はここまでしてバスケをやっているのだろう。全国を目指す、だとか、より高い場所で、もっと上手くなりたい、のような漠然としたイメージは常々あったが、それを何故、と問われると即答できない自分が居た。きっとそれは奏も同じだった。
「やっぱり好き、だからですか?」
「はははっ!じゃあ聞くが、時任は朝の5キロ走好きだったか?あれをありがたいありがたいって気持ちで走ったことあったか?そうじゃねんだ」
「じゃあ、負けたくない、とかですか?」
光もそう思った。負けたくない。自分にも相手にも。それは間違いなく原動力のひとつとして確実に存在していた。
「何に負けたくないんだ?」
「自分に、相手に、です」
「ほう。そうか。じゃあ自分に対しての勝ち負けはどこで決まるんだ?」
「例えば、トレーニングで追い込めたとき、とかですか?」
「他には?」
「ピンチの場面で渾身のストレートを投げ込めたとき」
「わかった、わかった。じゃあ自分に負けるときってどんなときだ?」
「雨降ってて、ランに行くの怠くてラン行かなかったときとか」
「そうだよな。時任、なんかわかったか?」
「いや、良くわかんないです」
光も少し頭がこんがらがってきていた。三田村が一体何を言いたいのか、その真意を掴みかねていた。
「自分に対する勝ち負けなんざ、際限がねぇのさ。何かを達成すれば、また次の目標が出てきちまう。それを繰り返すうちに人間って生き物は『ここでいいか』みたいな所を見つけちまうんだ。勉強でも、スポーツでも、仕事でも、だ。それを際限なくできる奴ももちろん世の中には居る。才能がある奴だ。正しく言うと『努力する』才能がある奴だ。そいつには敵わねぇ。どこまでもストイックにやれちまうんだ。そしてそれが正しいと信じることが出来る。ほとんどの人間は自分がそうじゃないことに気付いて辞めてく。諦めてく。だから最終的に、そういうバケモンみてぇな奴らしか残らないのさ。その点、拓巳も坂下も光ちゃんもみんなバケモンさ」
自分がその中に含まれているかどうかは別にして、おおよその内容は納得がいくものだった。あのピンの強気や、拓巳が自分を、そしてチームメイトを信じ抜く力は確かに才能的なものがあるかもしれないと感じた。
「大丈夫だ。時任。お前は今自分のことをそっち側じゃないと思ってるかもしれんが、人には向き不向きってもんがある。拓巳にとってはそれが野球だったとか、そんな違いでしかない。もちろん、俺もまだそんなもん見つけられてない。多少の運も必要なんだよ」
「でも、それじゃそういう人はどうすればいいんですか?そんなの敵いっこないですよ」
「うん。そうだな。俺も昔はそうだったんだ。きついよな。何か自分が自分の人生の主人公であるはずなのに、そうじゃない気がしちまうしな」
パチンという三田村のライターが開く音が響き、タバコの香りが冬の夜空へとスッと上っていく。きっと光の父親と同じ銘柄のものだ。光は不思議とこの匂いが嫌いではなかった。
「お前も吸うか?」
「アホなんですか」
奏はふっと笑い、三田村の申し出を断った。きっと三田村は笑っているのだろう。奏や拓巳と似た間の置き方に、二人にとってこの三田村という男の影響の大きさを窺い知れた。
「そこでだ、もう一回原点に立ち返るんだ。そもそも何でお前らは野球をあんなに一生懸命にやってたんだ?」
「好きだから、勝ちたいから、以外ですか?」
「あぁ。すごくシンプルなことだ」
「んー。良くわかんないです」
「まぁ、そうだよな。その歳でわかってたら皆苦労しねぇよ。時任、今年お前高三だからもう十八か。若いってのはいいよな。こっからどんだけでも可能性がある、大人にはそう見えちまう。でも実際そうなんだ。そりゃ空を飛ぶとかそんなぶっ壊れたもんじゃねぇ。例えば、今から医者目指せば医者になれるだろう。そりゃ今年はもう無理かもしれないけどな、そういう縛ってくる物を無視していけば、不可能ではないんだ」
「でも、それって監督みたいに年が俺より上の人でも同じ事じゃないんですか?」
「と、言う奴もいるがな。でも、じゃあ嫁は?子どもは?ほったらかして色々出来るわけじゃねぇんだ。背負う物が出来るって事は強みにもなるんだが、守りに入っちまうっていう弱み、ではないんだがそれに近い物にもなり得るんだよ」
ふーっと大きく煙を吐き出す音がする。
「まぁ、年は取りたくねぇなって話よ。でもな、若くてもな、何かに縛られてる奴は自由がどんどんなくなってくんだよ。気がつけば体ががんじがらめになっちまって、いざというときに身動きが取れなくなっちまう」
「例えば・・・それって何なんですか?」
「例えば・・・そうだな。世間体とか普通とかそんな言葉や価値観じゃないか?これもさっきの自分に勝つと同じで、キリがねぇんだ。判断基準なんてそれぞれが決めるものだしな。それを追っかけ始めると厄介だぞ。一瞬でつまんない奴になっちまう。でも、普通の人間はそうなんだ。そうやって大人になっちまうんだ」
光は、何か喉元にナイフを突きつけられているような感覚になった。奏の立場だったらどうだろうか?奏は今、自分がどうしたらいいのか、迷っている。それは進路にしても、千絵のことにしても、だ。三田村の話は今の奏には残酷すぎる。
「時任、今どんな気持ちだ?」
やめてくれ。もうこれ以上奏を苦しめないでやってくれ。
「ふっ。一点差で勝ってるときの九回ノーアウト満塁を投げてるって感じですね」
奏の声は光が想像するよりも落ち着いていて、ともすればどこか楽しそうでもあった。光にはそれが違和感に感じていた。
「ガハハ!そうだろう。追い込まれてるように思えるよな。そんな時、拓巳とお前に常々言ってたことがあったの、覚えてるか?」
「見方を、変えろ。ですか?」
「そうだ!その通りだ時任!ようは、やりたいか、やりたくないか、なんだよ物事は」
光は言っている意味がわからなかった。きっとそれは奏も同じだった。
「えーと、どういうことでしょう?」
「だからだ、時任。お前さんは今、やりたくてやってるんじゃないんだよ。何かに駆り立てられて、『やらなくちゃ』って思ってんだ。もちろんそれも大事なことさ。でも、バケモンになりてぇなら、『やりたい』と思うことを精一杯やるだけなんだ。そういう意味で、お前さんはきっと今何にもしたくねぇんだよ。だからこれでいいのかって迷うんだ」
光は、これは間違っていないかもしれない、と感じた。
「お前は、本当に受験をして、大学に行きたいのか?それが自分の本当にやりたいことなのか?」
「わかんないです。でも何かそうしないといけないような気がして」
「それだよ。何でだ?誰かに決められたのか?それとも、自分でちゃんと決めたのか?そうやってがんじがらめに縛られてるだけじゃないのか?そりゃ、普通は進学校に通ってて高校3年生なら、受験はするよな。そしてその大学はたぶん世間で言う『いい大学』だろうよ。もっと自由でいいんじゃねぇか?時任。お前は何にビビってんだ?中学までのお前はなんていうか、無敵だったじゃねぇか。何でも上手くこなせちまってよ。将来何になるのかって、勝手に想像が膨らんじまう奴だったぞ。あのときの自分が今の自分を見たら『ちっちぇなぁ』って言うんじゃないか?生意気な、お前の口癖だったよな?」
確かにそうだ。三田村の言うとおり、奏はもともともっと大胆不敵で、敵を作りやすい奴だった。縮こまるような性格でも器でもない。そういう奏に惹かれていたのも事実だ。でも、今の奏はそうじゃない。変わろうとしている。
「ん?時任どうした?やけに静かじゃねぇか」
「いや、今頭の中ぐっちゃぐちゃで、一生懸命整理してるんです」
「お前らしくねぇな」
三田村はまたガハハと大きな声で笑っている。
「お前はこの一年で、もがいて苦しんで何を得たんだ?たぶんお前さんはきっとこう考えてるんだろう。それじゃあ今までと何も変わらないって。でもよく考えてみろ?自分が本当にやりたくないことに一生懸命になるなって話だ。ただ、何もしないのと違うのは、よくわかるよな?」
「具体的に言うと、どういうことですか?」
「そうだな。本当にやりたくないことをやって、何かを獲得したとしよう。そしたら、本当にやりたいことをやる時間だったりキャパだったりが減る可能性があるって事だ。これはよく覚えておいた方が良い。それなら本当にやりたいことが出来るまで『準備』したら良いんだ。あくまで『準備』だがな」
「その『準備』をする為に、俺は慶王に行こうと思うんです」
「お前さんが本気でそう思って、やりたくて、今そんな感じなら止めやしねぇよ。でもな、時任。お前さんは本来どういう人間なんだ?それを忘れちゃいけねぇ」
「この一年で、俺はちっぽけな人間だって事がわかりました」
「本当にそうか?それはお前さんの本心か?」
「はい。そう思いました」
「そうか。じゃあ俺はお前さんを買いかぶりすぎてたのかもしれねぇなぁ。俺は中学校の時、中2だったか?お前さんにこう聞いたことがあったんだ。『お前、どんなピッチャーになりたいんだ?』ってな。そしたらお前さんはこう答えたんだ。覚えてるか?」
「「すごいピッチャーになりたいです」」
二人の声が重なる。声色までそっくりだった。
「そうだ。すげぇ奴がエースナンバーを背負うようになったもんだと心が躍ったね。まず、質問にちゃんと答えちゃいねぇ。抽象的すぎるんだよ。でもすげぇ奴だとは思ったね」
三田村は上機嫌で数年前の出来事を懐かしんでいた。
「時任。だからお前さんは、他の奴からすげぇと思われたいのさ。それがお前さんの原動力だったんだ。でも高校生になって、本当にやりたいことを心から一生懸命やってる奴に勝てなくなってきた。そこにお前さんは焦りを覚えて少しへこたれちまってんだよ」
光はある意味感心してしまった。自分にこれほどまで客観的なアドバイスをくれる人間は居るだろうか?確かにピンはその部類に入る人間なのかもしれないが、人間の深みというか、そういうものでは三田村には及ばないことは明白だった。
「そうかもしんないっすね。でもそれって格好つけてるのと一緒だって感じちゃってたんですけど」
「ガハハ!馬鹿言え!誰だって格好つけてるに決まってんじゃねぇか。そしてお前さんは普通の人間よりもともと格好つけだぞ?その自覚はなかったのか?」
光は確かにそうかもしれないと感じた。そこが奏の強みでもあり、今の弱みでもあった。しかし、その危うさというか脆さみたいなものも奏の魅力でもあった。
「はい。すみません」
「あの生意気時任が一丁前に、過去の過ちみたいなもんを反省するようになったのか!今日はきっと酒が美味いぞ」
三田村は豪快に笑った。
「まぁ、そういうこった。あんまり悩んでてもしょうがねぇ。お前が坂下ちゃんに負い目を感じてるのは、坂下ちゃんの方が現状すげぇからだ。お前はそれに見合う人間になろうって躍起になってるだけさ。それがお前さんにとっては現役で慶王に受かるって事だったんだろうが、恋愛ってそういう意地の張り合いとかじゃない。そこんとこよく考えるんだぞ。後は拓巳に対しても光ちゃんに対しても、だ。同じ土俵だと思うな。そこに上も下もねぇんだ。そいつらそれぞれがどうするか、どうしたいか、だと思うぞ」
「比べるなってことですか?」
「そういや、昔そんなこと歌ってたアイドルグループがいたなぁ。まぁ綺麗事だが、おおまかにはそうだ。それでも比べるのが人間なんだけどな。自分の中にぶれねぇ軸があればいいってそういう話さ。その軸がお前さんの場合、さっき言った基準なんじゃないかってことだな。わかるか?」
「はい。ありがとうございます」
「よし、じゃあ店に戻るか。休憩、今の1時間分で大丈夫だな?」
「はい。すみません、ありがとうございます。たこ焼きとコーヒーまでご馳走になって」
「いいって事よ。お前さんにも心配して駆けつけてくれる友達が居ることがわかってそれだけで満足だ」
どうやら、三田村には塀を隔てて自分が居ることがばれていたようだ。
「何言ってんですか?」
奏は首をかしげながら、コンビニに向かって走り出した。今こちらを振り返られると、結果として会話を盗み聞きしてしまったことがバレてしまう。咄嗟に光は物陰に隠れようとした。
「大丈夫だ、光ちゃん。あいつは気付いちゃいねぇよ」
不意に名前を呼ばれ、光はビクッとしたが、三田村は塀の向こうから声を掛けてきたようだ。
「お久し、ぶりです・・・。何で居るってわかったんですか?」
「そりゃあ、お前、道路挟んだ向こう側のケーキ屋のショーウィンドウにばっちり姿が映ってるからじゃねぇか!制服姿じゃないから一瞬わからなかったがな」
大笑いする三田村が指さす先をみると確かに横並びになったたこ焼き屋と郵便局がケーキショップのショーウィンドウに映し出されていた。
「うわっ!気付かなかった!奏は、気付いてましたか!?」
「あいつはそれどころじゃなかったからな。きっと大丈夫だ」
既に塀越しではなく、対面で話していた二人は、コンビニに入っていく奏の後ろ姿を見つめていた。
「奏、大丈夫ですかね?」
「さぁ。でもまぁ、光ちゃんが居れば大丈夫じゃないか?」
三田村は優しく光に微笑んでいた。
「何で私なんですか?千絵ちゃんだっているのに」
「さぁね、何となくそう思うだけさ。あいつ、今日光ちゃんと喧嘩したって青ざめてやってきたからな、よっぽどショックだったんだろう。これからも、あいつをよろしく頼んだぞ」
三田村はそう言うと、ひらひらと光に手を振り、足早に道路を渡って行ってしまった。