サウダーデ
三月 第四週
奏は右手をヒラヒラと振って笑った。
「でも、まぁ、ひとまずやりたいこと見つかったみたいでよかったわ。これで安心して東京に行けるわ」
「お前は宮崎だろうが。格好つけんな」
奏が巧みを軽く小突く。
「じゃあバイトは続けるってこと?それとも新しく何か始めるの?」
「あぁ。監督も全て分かった上で、いつ抜けても良いって言ってくれてるし、こいつと違ってまだ恩返し、済んでない気がするしな」
「馬鹿言えよ。たかだか一回甲子園出たぐらいで恩返しになるかっての。俺は契約金で親に家建てて、監督に高っけぇ焼肉奢るんだよ」
「お前のそういうところ小学生の頃から変わんねぇよな。監督も結構な年だぞ?胃もたれとか半端ないって」
「でも約束は約束だよ。俺はその約束を果たすために、今まで頑張ってきたんだ。ってかこれからもか、夢、みたいなもんだよ」
「夢、かいいな。たぶん今までなら馬鹿にしてたんだろうけど、良いよな、夢って」
「何だよ急に。恥ずかしいじゃねぇか」
「二人で顔赤くして何やってんのよ」
もうすぐ、本当にあと一瞬で高校生が終わる。まるで線香花火のようにまばゆく光り、命を燃やした期間が過ぎてゆき、過去になってゆく。今はそれが嬉しくもあり、悲しくもあり、言葉にするのには少し難しい感情だが、間違いなく言えることは、それらをひっくるめてみても、とても愛しい時間だった。夏の終わりを告げる線香花火の最後のように、できるだけ丁寧に扱い、この時間が少しでも延びますように、そう願いを掛けるように—。
「じゃあ、そろそろ行くか?」
奏の言葉によって、ゆっくりと終わりが始まる。
「あぁ、後輩達も校門で待ってくれてるからな。光もそうだろ?」
「あんまり行きたくないんだけどね」
「あの野球部の胴上げは何とかならんのか?」
「俺らの代で終わらそうとも言ったんだけどな、どうもOB達が伝統を無くさないでくれって、年末の総会の時に言ってきたみたいで・・・」
「いいじゃないの。バスケ部なんて最後の送り出し会を今日の夜にやるのよ?少しはゆっくりしたいじゃない」
「こういうとき、帰宅部は楽だなぁ。つくづく部活入って無くて良かったって思うわ」
廊下に三人の声が響く。騒がしい校舎の外とは対照的に、三人はいたって平熱だった。でも、何故か光にはもう二度とこの場所で三人の声が響くことはないような気がした。そしてきっとそれは奏も拓巳も同じだった。1階の下駄箱に続くエントランスまで、ゆっくりと階段を下っていく。拓巳は高窓から差し込む太陽の光を眩しそうに見上げていた。その眼差しはどこか哀愁を帯びているように見えた。奏は少し俯き一歩一歩踏みしめるように、まるで別れを告げるかのように、階段を下っていた。結局階段を下り終わるまで、誰も口を開かなかった。
「じゃあ、行ってくるわ!」
靴を履き終えた拓巳は、奏と光に向かって、勢いよくそう言うと、奏に向かって左手の拳を突き出した。コツンと拳がぶつかる。それを確認すると、拓巳は野球部の後輩達が黒々と集まる輪の中に駆けていき、6度宙を舞った。奏と光はそれを見ながら、ゆっくりと靴を履く。もみくちゃにされながら地面へと戻った拓巳の横には、先に卒業式を迎え、春休みに入り、髪を茶色に染め笑顔を浮かべる加奈が居た。おそらくこの後、拓巳の隣がどんどん似合うようになるのだろう。そのことは少し女として羨ましくも思った。
「奏君!」
不意に奏を呼ぶ声がする。細身の小柄な美しい少女が目に飛び込んでくる。まさに、春といった装いが非常によく似合うのは坂下千絵だ。
「おお!どうしたの?」
「いや、加奈さんから、今日が卒業式だって聞いたから、おめでとう、言いに来たの!」
「そんなのメッセージでよかったのに」
この二人が付き合っていないと聞いて、一体どれぐらいの人がそれを信じるだろうか。それぐらい、悔しいぐらいにお似合いの二人だと感じる。
「私が直接伝えたかったから、伝えに来たの!卒業おめでとう!そして合格もおめでとう!」
「あぁ。ありがとう」
「そしてね、私も、ちゃんと合格したよ。4月から、駅前のネイルサロンで働くことになったから」
「マジか。それはよかった、おめでとう。」
「奏君、ありがとうね」
「何が?」
「ううん。何か、お礼、言っておきたかったの」
「こちらこそ、ありがとう。おかげでずいぶん人間らしくなれた気がする」
「何それ、褒めてるつもりかもしれないけど、あんまり言われて嬉しくないんだけど。それより、ひょっとして、幼なじみさん?」
大きな目とばっちりと目が合う。ほのかにだが、香水の匂いがした。
「あ、初めまして、光って言います」
「やっぱり!奏君から話、聞いてます!私、坂下千絵って言います。やっぱりめっちゃかわいいですよね!今度、是非お店に遊びに来てください!」
「あ、でも私、バスケやっててあんまりネイルとか出来なくて・・・」
「いえ!爪を割れにくくするネイルとか、あるんですよ!透明でもおしゃれなヤツとか、怪我予防でアスリートネイルするプロ選手とかもいるんで!」
嫌味が全くなく、すっと懐に飛び込んでくるこの少女のことを、光は恐らく嫌いにはなれないだろうな、と感じた。それは、拓巳や真田に似た真っ直ぐさをこの少女が持っているからだろう。
「え?本当に?じゃあ春休みにお願いしようかな?」
「私だったらまだ修行期間なんで、美容室でいうカットモデルみたいな感じでかなり安く出来ます!是非練習台になって下さい!」
「光が初対面なのに人見知りしないって、珍しいな」
「うるさいな。え、じゃあお願いしようかな。連絡先交換してもらっても大丈夫?」
「はい!もちろん!」
携帯を取りだし、千絵が差し出した画面のQRコードを読み取る。いつものネコのスタンプを送った。
「わ!ありがとうございます!このスタンプ可愛いですね」
「そうか?いつもこのスタンプになんて返したら良いかわかんないんだよ」
「奏君はそんなこと言ってると、おじさんみたいだよ?」
加奈は千絵や奏、光の姿を見つけたのか、こちらに向かって大きく手を振り、手招きしている。
「加奈さんに見つかっちゃったかー、ちょっと行ってきますね。ごめんなさい、ばたばたしちゃって」
「いいの、いいの。先に行ってて」
「本当にすみません!後でゆっくり」
「いいえー」
千絵は小さく会釈をすると加奈の元へと小走りで駆けていった。小柄な千絵は長身の加奈にまるで埋まるかのように抱きついていた。
「すごく良い子じゃん」
「うん。良い子なんだよ」
「あんなシャネルの五番みたいな子、奏にはもったいないよ」
「うん?シャネルの五番?」
「おこちゃまな奏にはまだまだ手が届かないって事だよ」
「まぁ振られてるしな」
「あんた、それ自分で言っちゃったら、すごく格好悪いよ?」
「うるせー」
「さぁ、私たちもそろそろ行こっか?」
加奈は千絵を抱きかかえながら、長い手を精一杯振り、奏と光を手招きしていた。加奈の傍にはギターケースを担ぎながら談笑している、真田の姿もあった。
「あぁ、光、いろいろありがとうな」
急にこちらに向き直り、まじめな口調になる奏に違和感を覚える。
「なんか、雑じゃない?」
精一杯の照れ隠しだった。
「いや、上手く言えないんだけどさ、ここ最近、お前が居たから頑張れた。なんか充電できるっていうか」
「私は、充電器か?」
軽口を叩いていないと、思わず隠していた気持ちがあふれ出そうになる。
「いや、だから上手くは言えないんだって」
奏の表情からは、確かに伝えたい思いがあるのに、それをどうやって伝えたら良いか、どんな言葉にすれば良いか、わからない、といった感情が読み取れた。この表情は最近、自分が良くしていたものだから、よくわかる。
「それで十分だよ、これからもよろしく」
「あぁ、よろしく」
「そういえば、今年のクリスマスってあんた何してんの?」
「クリスマス?うーん。そんな先のことわかんねぇなぁ。フライドチキンでも売ってるんじゃないか?」
「ばーか」