月に叢雲、花に風

七月 第四週

奏は缶を数回振り、タブを起こすとコーヒーを一口飲み、続ける。
「俺に藤村ほど才能がなかったからか?それとも信用されてなかったからか?」
拓巳の右手には硬く拳が握られていた。
「どっちでもねぇよ。どう考えてもあのバッターは変化球にタイミングが合ってなかった。だからあの日一番いい変化球を投げさせたかったんだ」
「違うね。あの日お前は逃げたかったんだ。真っ直ぐを投げさせて打たられたら、お前の責任になる。でも首を振って投げた球なら投げたやつの責任に出来る」
奏は明らかに拓巳を煽るような言い方をしていたが、拓巳はその挑発には乗らなかった。二人の間に重たく冷たい沈黙が流れる。
「お前、この三年間そんなこと考えてたのかよ。それがお前の本心かよ」
沈黙を破った拓巳の声はかすかに震えていた。
「人のせいにしたいわけじゃないけど、あの日お前がスライダーを投げてれば俺らは負けなかったはずだ。今でもそう思う。そして、お前は俺を信じてそこに投げてくれるとも思ってた。今日の藤村だってそうだ。自信と確信があったリードだ。でも、それを投げさせることができなかった。結果的には俺の負けなんだ」
「そうやって、全部自分で背負い込んで楽しいのかお前?打たれたってことは俺らバッテリーとしての負けじゃないのか?」
再び二人の間に重たく冷たい沈黙が流れる。
「お前って、無意識的に俺らピッチャーのことを馬鹿にしてるんだよ。お前一人でバッテリーのつもりか?」
「違う!」
大声で否定した後、拓巳は思わず立ち上がった。
「そうじゃないだろ、奏。なんでお前はそこまで人を追い込もうとするんだよ」
拓巳の大きな肩はわなわなと震えていた。
「どんな日も、今日の試合中だって、あの日のことを忘れたことはない。俺はお前から野球を奪ってしまったかもしれないんだ。お前から恨まれてるかもしれないとも考えるんだ」
拓巳の節くれだった両手は頭を抱えていた。
「かける言葉がねぇな」
星空を眺めていた奏の声は落ち着いたものだった。
「俺はあのとき、自信を持って全力で投げたストレートを打ち返されて、諦めがついたんだ。お前のせいでも何でもねぇよ」
夜風が奏の髪を揺らす。
「ただ、何であのときストレートじゃなくてスライダーを要求したのか気になったんだよ。今日の藤村の姿が俺の姿とダブったんだ。拓巳、お前一瞬迷っただろ?」
拓巳は俯いたまま無言で頷いている。
「それは、あの日の事がよぎったからか?」
「違うとは言い切れねぇな。」
二人を包む静寂は先ほどの沈黙ほど重苦しいものではなくなっていた。
「ただ、それだけじゃなく、色んなものがよぎったよ。甲子園のこと、唐澤のこと、奏のこと、藤村のこと、試合はまだ終わってないのにな」
「そうか。俺の時はどうだったんだ?」
「さっき言った通りさ。あの日はスライダーがキレてた。バットが空を切る絵が描けてた。ただ、それだけだ」
「じゃあ、何でその後すぐに真っ直ぐのサインを出したんだ?」
「お前らのストレートに惚れてたからさ。捻じ伏せてくれると信じてたからだよ」
「皮肉なもんだな」
「あぁ。これだけ自分と人と向き合って、悩んで悩んで三年間過ごした結果がこれだぜ。野球の神様、そりゃねぇぜって感じだ」
拓巳の顔には柔らかな笑みが戻っていた。
「悪かったな」
奏は右手を拓巳の前に差し出した。
「人のトラウマ抉っといてその態度は、やっぱすげぇよ。お前」
奏の手を節くれだった大きな手が握り返した。
「藤村は辞めないよな?」
「あいつがそんなタマかよ」
「先輩達の夏を終わらせたかもって、気に病んでるかもしれないぞ?」
「あいつにそんな繊細な心があったら、俺の口から俺と奏の話をしてるのにあの状況で敢えてストレートなんて放るかよ」
「呆れちまうな。あいつ頭おかしいんじゃねぇか」
「抑えてたら『俺、奏さん越えました』とかほざいて唐澤からシバかれてたんじゃねぇか?」
奏は思わず吹き出してしまっていた。いつの間にかいつもの二人に戻っているようだった。
「拓巳はこのあとどうすんだよ」
「野球は続けるさ。でっかい借りが出来ちまったからな」
「問題はどこでやるか、だろ?スカウトも来てたんだろ?」
「まぁゆっくり考えるさ。時間はいっぱいあるんだ」
「ちょっと早かったけど、ひとまずお疲れ様、だな」
「サンキュー」
そういうと拓巳は奏に背を向け、自分の家の方に歩みを進め、ヒラヒラと右手を降った。
「今日はいっぱい泣いても良いんだぞ」
奏も自分の家の方に足を向けながら拓巳をからかう。
「うるせー。打たれたシーン思い出して一生凹んでろ」
夜の公園の照明がスポットライトのように反対方向に向かう二人を照らす。相手の顔が見え
なくとも、二人にはお互いの表情が手に取るようにわかっているようだった。
「週明けの光は絶対めんどくせーから気をつけろよ」
「さすがに二回目だから、大丈夫だ」
奏に聞こえるように、拓巳の声は少し大きくなっていた。
「モテモテへの道は遠いな、拓巳」
奏の声量も上がる。
「お前こそ一生光の子守で終わるなよ」
「俺はこの前、バイト先の子とデートしたぞ」
「は?聞いてねぇぞ」
拓巳は本気で驚いた声で振り返る。
「また学校でな」
奏は振り返らないまま別れを告げると、公園の駐輪場に置いた自身の自転車に跨がろうとしていた。
「少しむかついたけど、今日はありがとな」
ひときわ大きい声で拓巳が感謝を告げる。奏は自転車に跨がると、拓巳の方を振り返らずヒラヒラと左手を振った。ペダルを漕ぐ足に力が入り、じわりと汗が滲む。坂道を上りきった後に見下ろす町並みは、いつもより輝いて見えた。坂をブレーキ無しで下ると頬に当たる風は僅かな湿り気を含み、次の季節を連れてくるようだった。