月に叢雲、花に風

七月 第三週

一塁ベースからベンチに戻ってくる背番号2の目深に被ったヘルメットの下に悪戯っぽい笑みを見た奏と光はハイタッチを交わした。
 
 スタンドはどよめきがしばらく収まらなかった。チャンスをフイにし続けてきた浅葱西が、まさかのプロ注目選手のスクイズという形で先制し、残り九回表を抑えれば甲子園出場に大手をかける場面。ざわついたまま八回裏の攻撃は終了し、運命の九回表を迎えた。援護をもらった藤村のイニング間の投球練習はまさに水を得た魚のように、躍動感溢れるもので、まるで初回の投球練習の焼き増しを見ているかと錯覚するほど疲労などからは程遠いものだった。
「あと三人で完封か。大したエースに育っちまったもんだ」
藤村が初球を自慢のストレートでストライクを取る。
「こんな時でも唐澤君は準備してるんだね」
光の目はブルペンで黙々と準備を続ける唐澤に向けられていた。
「だから唐澤のチームなんだよ。もしものことがあってもあいつが居る。だから藤村もここまですごいピッチャーになったのかもな」
2ストライク目は152km/h、この日最速の計時に球場のどよめきが大きくなる。
「私って、誰かをそんな風に育てる事って出来てたのかな」
「それは、第三者が見て、感じることだろ。それにそれが出来てるからって偉いわけじゃねぇよ」
「そっか」
光はころころと笑っている。藤村は大きなカーブで三振を奪っていた。
「さぁ、我らが拓巳が甲子園に返り咲くまであと二人か」
「バカ。まだわかんないでしょ。それにまだ準決勝だよ」
軽口を言い合う間に初球を打ち上げキャッチャーフライ。拓巳がガッチリと掴みあと一人。
「ここでキャプテンが代打か」
「なんで知ってるの?」
「あいつ、俺らの代じゃ中学の時有名だったんだ。三年の時に肩壊しちまって、そこからあんまり活躍できてなかったんだけど、最後の夏には間に合ったんだな」
「レギュラーの子達よりオーラあるね」
「まぁ、俺と拓巳のライバルだったからな」
大きくタイミングが外れた空振り。振り遅れている。
「ライバルとか、居たんだ。なんか奏って『天上天下唯我独尊』みたいな感じで部活してなかった?」
「そんなに痛いやつじゃねぇよ」
甲高い金属音の後に金網にボールが当たる音がした。バックネットへのファウルチップで2ストライク、あと一球。浅葱西のスタンドからは後一球コールが巻き起こっている。
「やめろ」
奏は咄嗟に感じ取った僅かな違和感を口に出した。グラウンドでは藤村が一度首を振っていた。次の瞬間、鋭い金属音と共に大きな弧を描いたボールは外野の芝生席で大きく跳ねた。
「え、なんで?」
光は目の前で起こったことに理解が出来ていなかった。まるで三年前のデジャヴを見ているようだった。ピッチャーが首を横に振り、拓巳が少しだけ、ほんの少しだけ首をかしげて構える。ピッチャーの手を離れたボールは美しい軌跡を描きながら、拓巳のミットに収まる寸前でバットに捕まってしまう。奏が野球を辞めた日のデジャヴを見ているようだった。違いと言えば、奏が変化球を投げたのに対し、藤村はストレートを投げたことだった。
「拓巳のバカが」
唐澤が駆け足で伝令としてマウンドに駆け寄る姿をじっと見つめ、下唇を噛む奏を光は心配そうに見つめる。
「なんでわかったの?」
「虫の知らせ、みたいなもんかな。あのバカが余計なこと考えた瞬間、嫌な予感がしたんだ」
試合が再開されたあとの藤村は、張り詰めていた何かがプツッと切れたかのように調子が狂っ    
てしまったようだった。連続フォアボールの後に、ボークと暴投で決勝点を献上し、最後は三振で締めたものの、顔面蒼白でベンチに引き上げていった。その数分後、浅葱西の最後のバッターが三振に倒れ、拓巳の夏が終わった。朝倉高校の校歌が流れる間、藤村を含むほとんどの生徒が号泣する中、隣同士だった唐澤と拓巳の目には涙はなかった。光にとってこの日、二度目のデジャヴだった。唐澤と奏の姿がタブって見えてしまう感覚を、光は奏に敢えて伝えないでいた。

「お疲れ」
夜中に突然家のインターホンを鳴らしやってきたのは、幼なじみの奏だとわかっていたのか、拓巳は何のためらいもなくドアを開けると同時にいつも通り挨拶をしてきた。
「自殺してないか確認しに来たわ」
奏の手には缶コーヒーが二つ握られていた。
「お前はマジでもう少し人の気持ちってものを考えられるようになった方が良いぞ」
拓巳はそのうち一つを受け取ると、家の外に向かって歩き出した。
「奏、お前が言いたいことはだいたいわかる。説教しに来たのか?」
「俺がわざわざ傷に塩塗るようなやつだと思ってるのかよ。単純にお前が心配だっただけだ」
「じゃあ何でそんなにニヤついてんだよ」
拓巳の大きな手が軽く奏の頭を小突く。
「痛って。元からこの顔なんだよ」
「だから敵が多いんだろうが」
「うるせー。俺は今日答え合わせをしに来たんだよ」
二人は、拓巳の家から歩いてすぐの団地の中にある小さな公園のブランコに腰をかけた。
「答え合わせ?何のことだよ」
拓巳は怪訝そうに眉をひそめながら、奏に軽く会釈をして缶コーヒーのタブを起こした。
「なんであの日、俺にスライダーを要求したんだ?」
拓巳はコーヒーを口にしかけたが、奏の言葉を聞いた途端に缶を地面に置いてしまった。
「その話、何回目だよ。そして今する気分でもないわ」
「逃げんなよ。拓巳」
奏の声は決して大きくはなかったが、低く、力強かった。