瞳に希望、唇には唄
十二月 第二週
「そっか。でも何で慶王なの?」
「やっぱやるからには一番、取らなきゃかなって思ってな。拓巳も光も今年は一番、目指してただろ?やっぱかっこよかったんだよ。じゃあ国立の一番は東大、流石に無理だ。でも私立なら?まだ可能性あんじゃんって」
そういって悪戯っぽく笑う奏は、よく知る奏だった。それ見て少し安心している自分に気付く。そうだ、私はこの顔を隣で見ていたいのだ。
「勝率はどのぐらいあるの?」
思わず笑みがこぼれる自分が居る。
「んー。高く見積もって三割五分ってとこか?」
「中学の頃の打率より高いじゃない。じゃあ大丈夫だね」
「うるせぇ。そもそも俺はピッチャーだっての」
「そういえばさ」
自分でも予想外なタイミングで話を切り出してしまったことに光は驚いた。
「ん?どうしたんだよ?」
奏は不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「いや、あんたさ、クリスマス、何してんの?」
「クリスマス?何でだよ」
私が奏の立場でもそう思うだろう。
「なんででも!何してんの?」
「フライドチキン、売ってると思う」
奏は大まじめにそう答えた。それが面白くて思わず吹き出してしまった。
「フ、フライドチキン?何それ?」
「いや、バイトだよ。今年のチキンは本社が力入れてて結構売らなきゃなんないんだよ」
「じゃあずっとバイトしてるの?」
「土曜日だし、そう、なるな」
「なんだ、つまんないの」
「何かあったのか?」
奏はこっちの気持ちなんてものは全く知らないかのように振る舞っている。それが奏らしくもあり腹立たしくもあり、少しの恥ずかしさもあり光は複雑な心境の中にいた。
「別に、ただ久しぶりに買い物とか付き合って欲しいなーって」
光からすれば見え見えの嘘だった。
「何だよそれ、受験前のバイトはダメで買い物に付き合わせるのはアリなのかよ」
奏は呆れたように笑っているが、そのことがより鮮明に幼なじみとしての評価しか下されていないように感じられた。
「じゃあ、ずっとチキン揚げてればいいじゃん」
光はさっきまでホットコーヒーが入っていたまだ熱が残る紙のカップを握りつぶしながら、小さな声で呟いた。
「何で怒ってんだよ」
焦った奏の声が鼓膜に張り付く。耳障りだった。
「どうしたんだよ?なんか最近変だぞ?」
覗き込んでくる奏の顔をあまり直視することができない。ここでさらに踏み込んでしまえば、今まであった居心地の良い場所は無くなってしまうかもしれない。そう思うと、あと一歩踏み出せない自分がいた。
「ううん。なんでもない。ただ毎日同じことの繰り返しだから気分転換したいって思っただけだよ。バスケ部の子達はまだ入試の勉強で忙しそうだし」
「ごめん。流石にこの繁忙期にシフト変わってとは言いにくいわ」
奏はバツの悪そうな顔をしているが、悪いと思っているポイントは光が望んでいるものとは別のものだった。その事に気付いているわけではないが、奏も今までとは異なる様子に戸惑いを見せている。二人の間に形容し難い空気が流れる。きっと奏も今拓巳が居てくれたらどれほど楽だろう、そんなことを考えているに違いない。しかし、光は同時に拓巳がここに居なくてよかったとも感じていた。勝負しようにもその土俵にすら立たせて貰えない経験は初めてだった。
「そうだよね。いきなりゴメン」
努めて明るく振る舞おうとしたが、上手く笑えない。ともすれば瞳から涙が溢れてしまいそうになる。何としてでも泣いてはいけないことだけはわかっていた。
「今度必ず埋め合わせするから。とりあえず、好きなアイスでも奢ろうか?」
光はこの『埋め合わせ』が何を埋めるものなのか、考えれば考えるほど良くない感情に支配されそうだった。おそらく問い正してもそれはあくまで『予定』の埋め合わせでしかなく、気持ちの部分ではない。光にとっての一世一代の勝負のようなものは、到底アイス一個などで埋められるものではない。
「そういうんじゃないんだけどなぁ」
光は暗闇と夕焼けが溶け合う方角を見てポツリと呟いた。
「やっぱなんか変だぞ。何か悩みでもあるのか?それとも体調悪いとか?」
確かに今まで十数年幼なじみという役を与えられて来た人間が、急にその役を放棄して動き始めれば、その動きは奇異に映るだろう。この気持ちを単純に悩みだとかその類いの言葉で片付けることが出来ればどれほど楽だろうか。もういっそのこと、その悩みの種は奏なのだと告げることが出来たなら。
「ううん。ホントに何にも無い。少し疲れてるのかも」
「そっか、もう寒いし体調には気をつけろよ?」
目の前で心配そうに覗き込んでくる瞳には、きっと幼なじみ以上でも以下でもない三ツ村光が映っていることであろう。そのことを疎ましく思ったのは今日が初めてだった。そして同時に確信した。奏にとっての幼なじみを卒業しなくては自分に勝機はない。幼なじみではどのみち一番居心地が良い場所はいずれ誰かに譲らなくてはならない。ひょっとすると拓巳にはそのタイミングが既に訪れていて、そのことを警告してきていたのではないかとすら思えるようになってくる。辺りはオレンジが陰り、濃紺が深く垂れ込めようかとしている。
「うん、そうだね。奏はさ—」
「うん?」
二つの黒い瞳が真っ直ぐに向けられる。心に波風が立つのがわかる。
「奏はさ、ずっと私たちがこのままでいられると思う?」
「俺ら三人が?そりゃあ東京に居ればすぐに会えるだろうしな」
「そっか。私はそうは思わないな」
「どうしてだ?拓巳と光は野球とバスケで忙しいからか?」
「ううん。きっとそうじゃない」
「何でだよ。俺の打率じゃ心許ないか?落ちるって言いたいのか?」
奏は屈託なく笑いながらそう聞き返してきたが、笑えなかった。
「ううん。入試の事じゃない、なんていうか女の勘ってやつ」
あえていつも使わない表情で、声色で、温度で、そう伝えてみた。
「大丈夫だよ、例え彼女が出来たって、拓巳みたいに俺らは変わんねぇよ」
そう、それは拓巳だから。そして加奈ちゃんだから。きっと奏にはわかりっこない。
「そっか。ならいいんだ。何かゴメン」
何で謝ってるんだろう。
「とりあえず今日は早く寝ろよ。絶対疲れてるって」
「奏こそね。バイトもほどほどにしないと、もっと打率下がるよ?」
「縁起でもないこと言うなよな。明日面談だっていうのに」
「夏からバイトはほどほどにしとけって言ってたのにずっと続けてるからでしょ?バカじゃないの?」
本当に奏も、私自身もバカだ。
「わかってるよ。ただ、バイトやってた方が何か落ち着くんだ」
「よくわかんないわね」
本当に奏の気持ちも、考えていることも、全くわからない。それに加えて、今は自分のそれもわからなくなっていた。
「とりあえず、俺も東京に行けるように頑張るわ」
奏は右ポケットから携帯を取り出しながらそう言った。
「応援してるから」
光はそう告げると自転車に跨がった。
コンビニの角で奏と別れた光は、何となく拓巳に色々なことを打ち明けたいと感じていた。それはある種のけじめであり、客観的に自分を見るためであり、居ても立っても居られなくなっていたからでもあった。
急いでスマホの画面に親指を走らせていく。
『今何してる?』
思ったよりも既読が早かった。
『今グラウンドで打ち込みしててそれが終わったとこ。どした?』
『あと何分ぐらいで終わる?』
『今から片付けするからあと15分ってとこか?』
『わかった!そしたら今からそっちに向かうね!』
『だからどうしたんだよ笑 とりあえずまたあとで!』
光はスマホを握りしめ、もう一度自転車をコンビニの駐輪場へと駐め置くと、学校へと続く坂道を引き返した。この坂道もあと何回上り下りすることになるのだろうか。光はそれがあと何回あるにしても、茜色に染まる空まで、真っ直ぐ繋がっているかようなこのケヤキ並木の緩やかな坂の事を、そしてこの景色を美しいと感じた事を、忘れないでいたいと思った。部活の練習の時、夏の登校の時間帯、何度もこの坂に苦しめられてきたが、いざ別れが近くなると愛おしく感じてしまうのは、とても不思議なものだと考えさせられた。どうやら人間は過去を美化する生き物らしい。
拓巳が校門に姿を現す頃には辺りはすっかり暗くなり、夜空には星が瞬いていた。
「ゴメン、待たせた?」
スポーツバックを肩に担いで藤村と共に現れた拓巳の体は、ここにきてより引き締まって少年の影を消し去り、まるで金剛力士像のような雰囲気を醸し出していた。
「全然!今日暇してたし」
「そっか、でも何かコンビニで奢るわ」
「やった!ラッキー!さっきも奏にコーヒー奢ってもらったし、今日ついてるわ」
「まぁ遅くなったのは半分こいつのせいだけどな」
「こ、こんにちは、三ツ村さんですよね?明翔大おめでとうございます」
拓巳の背後にいた、長身痩せ形の男子高校生はバツが悪そうに挨拶をした。
「あら?怪物サウスポー君がどうして私のこと知ってるの?」
「三ツ村さん結構有名人だと思います。むしろ知らない二年の方が少ない気がしますよ」
藤村は照れくさそうに笑っていたが、光にはマウンド上で鬼気迫る表情で剛速球を投げ込む野球選手と、目の前ではにかむこの少年が同一人物だとはにわかに信じられなかった。
「藤村君って何かイメージと違うなー。何かもっと奏みたいな人かと思った」
「それどういう意味だよ」
拓巳は大きな口を開けて笑いながら軽く光の頭を叩いた。
「痛っ!そのまんまの意味だよ」
不意に突っ込まれて光は少しムッとしたが、先ほどの言葉に他意はなかった。
「こいつに奏って言ってもよくわかんねぇだろうが」
もう一度拓巳の大きな手が飛んでくる。
「いや、でもホント仲良いんですね。ビックリしました」
「ん?何が?」
藤村の方を振り返った拓巳は突然の発言にその真意を掴みかねているようだった。
「いや、拓巳さん達が仲が良いって話、よく先輩達から聞いてはいたんですけど、いざ目の当たりにするのは初めてっていうか、何か上手く伝えられないんですけど、本当にめちゃくちゃ仲良いんだなって」
「そうか?十年以上一緒に居ればこんなもんだと思うぞ?」
「俺はそんな幼なじみとか全然いないんで、スゲー羨ましいと思ってます」
「だってよ?」
不意に拓巳から話を振られて驚いたが、一般的には確かにそうなのかもしれない。でも、光達にはそれが当たり前であるからこそ、羨望の眼差しを向けられても、それにどれだけの価値があることなのか測りかねるのだ。
「うーん。確かによくそう言われるんだけど、私たちにとってはこれが普通だからね・・・」
「でも絶対良いことだと思いますよ。拓巳さんがここまで素でいるのを見たの初めてかもしれないです」
「お前、それは言い過ぎだろ」
明らかに光の時に見舞ったそれとは格が違うツッコミが藤村を襲う。
「痛った!いや、マジですって拓巳さん!」
藤村は足早に坂を下りながら、自主練に付き合ってくれた礼を拓巳に告げ、少し離れたところで丁寧に光に遅くなったことを謝罪し、一礼をしてから坂を下っていった。
「あそこまでひっぱたかなくても良かったんじゃない?」
だんだん遠ざかり小さくなっていく背中を横目に見送りながら光は拓巳を窘めた。
「あいつあぁでもしないと余計なことばっか言うからしょうがないんだよ」
「これだから男子の体育会系のノリは嫌いなのよね」
「女子の方がネチネチしてて嫌だね。それはそうとどうしたんだよ?」
「うーん。何から話せば良いんだろう」
光は自分の頭の中を整理するために、星の瞬きが強くなった夜空を眺め息を吸った。肺に冷たい空気が入り、それが体中に駆け巡る感覚がある。こうすると頭の中がクリアになる気がした。