瞳に希望、唇には唄

十二月 第一週

瞳に希望、唇には唄

 ここ最近の光の毎日は、言わばルーティン化していた。朝起きて、ランニングをして、自主練をこなすとシャワーを浴びて学校に行く。放課後は体幹をジムで鍛え、課題をこなし22:30には眠りにつく。良く歌詞に出てくる繰り返される日々ともいえるのだろうが、光の頭の中にはその繰り返しに対してマイナスなイメージはあまりなかった。むしろ、明翔大に行き、バスケを思いっきりやるためのルーティンなら苦痛であろうはずがないとも思っていた。しかしそれと同時に、周りの生徒のことを考えると、その一種の喜びのようなものはあまり表に出さない方が良いとも考えていた。奏は第一志望校の選定に苦労していたし、拓巳も結局プロ志望届を出さなかったため、獲得を熱望する社会人チームと東京の六大学リーグとの間で大きく揺れていたからだ。バスケ部のチームメイト達も同様であった。光以外の選手達は大学でのプレーを望まない者もいたため、純粋な学力試験で進学を目指す者も少なくなかった。部活メインで高校生活を送ってきた生徒達にとって、今までの穴を埋め、入試に対応できるまでの学力を身につけるのは至難の業だった。彼ら彼女らの必死な姿を見るたびに、自分はどれほど恵まれているんだろうと感じるほどだ。光はそのことをピンに相談したが、
『別にそいつらが勝手に望んでやってきたことでしょ?自業自得だよ。別にウチらもラクして明大入ったわけじゃないんだし、気にしなくて良くない?』
と、いかにもなメッセージが返ってきただけだった。確かにピンの言うこともわかるが、光には、はいそうですね、とはいかなかった。それなりに努力はしてきたつもりだし、自分が勝ち取った推薦枠ではあるのだが、どこか自分がサボっているような、後ろ指をさされているような居心地の悪さを感じているのも確かだった。さらにいえば、ピンの精神的な強さを羨ましく思うこともあったが、そこまで強気でいることが出来ない自分もまた嫌いではなかった。結局はないものねだりだ、ということを光はよくわかっていた。
 そんな光にも最近、気になって仕方がない事があった。奏の事だ。十一月の中頃から、奏の様子がどうもおかしい。飄々としていて、何かあってもぶつかろうとせずかわしてきた奏が、自分の進路について真剣に悩み向き合っている事は良いことなのかも知れないが、そこに奏「らしさ」がない。光には何かに追われるように自分を追い込んでいるようにしか見えなかった。光は昼休みの昼食中に、少し痩せてさらに顎のラインがシャープになった奏の横顔を眺めながらそんなことを考えていた。
「そういえばさ」
弁当を食べているふとした間に拓巳がぽつりと呟いた。光も奏も次の一言を待っている。
「俺、立正大学に行くことにするわ」
拓巳の表情は柔らかく、どこか寂しそうな匂いを携えていた。光はこの表情を形容するのにふさわしい言葉を見つけようとしたが、なかなか出てこない。強いて言うならば郷愁だろうか。「東京か。六大学にしたんだな?」
奏は真っ直ぐ拓巳を見つめている。
「あぁ。古豪だけど、設備も整ってた。何より俺を一番必要としてくれてる気がした」
拓巳の表情には覚悟が滲んでいるようにも見えた。相手が拓巳でないなら、そして自分が拓巳にとって『光』という存在でなければ、無邪気に同じ東京だね、なんて可愛らしいことも言えたかもしれないが、拓巳が抱える悩みも進路にかける思いの重さも近くで見てきたからこそ、今はまだ何も言うタイミングではないと本能が言っていた。
「でも、立正か。なんかお前らしくないな」
「どういうことだ?」
「いや、お前はもっと慶王とか派手なとこ行くと思ってたから」
「お前の中では俺はどういうイメージなんだよ」
良かった。いつもの奏と拓巳だ。
「プロ蹴って六大学に殴り込みに行くスーパールーキーってとこか?」
「うるせぇ。プロからお呼びがかかんなかったんだよ」
「それはお前が選り好みするからだろ?」
時々、光は奏や拓巳の事を酷く羨ましく思うことがあった。時折ひやりとする内容の際どい会話もこの二人ならば平熱で話せるのではないか、そう思うと男の子というのはひょっとすると女の子に比べるとかなり得な生き物なのではないか、そう思えるほどであった。
「まぁな。でも加奈のこともあるし」
「加奈ちゃん?」
奏は怪訝そうな顔をしている。
「やっぱり、なんだかんだ言っても、大学は出てた方が良いだろ」
「なんだかんだってまるで結婚でもするような口ぶりじゃねぇか」
「そりゃ、俺のために死ぬほど受験勉強するような彼女だぞ。ぞんざいにっていうか、中途半端に考えられるわけないだろ」
「そっか。確かにそうだよな」
光からは奏が一瞬何かを噛み殺したかのように見えたが、一体それが何なのかはわからなかった。しかし、最近の奏の様子の変化の一因もどこかそこにあるような気がしてならなかった。もし、自分が拓巳だったなら—。そう思わされるタイミングでもあった。
「でも、よかったじゃん。やりがい、感じてるんでしょ?」
「あぁ。ありがとう。やっとこれで野球に打ち込めるよ」
久しぶりに拓巳の心からの笑顔を見たような気がした。
「これで、拓巳も光も東京か。なんか色々考えさせられるな」
奏は何かを噛みしめるように、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
「何言ってんだよ。どうせ新幹線とか電車ですぐだろ?」
拓巳はあまりこの話題に関して『重み』を感じていないようだった。
「うん。まぁな。でも拓巳も光も浅葱を出ることに関しては、何も感じなかったのか?」
何も感じない、といえば嘘になる。18年間生まれ育ってきたこの町に愛着がないわけがない。しかし大学以外に、今より高いレベルでバスケをする環境はない。光の中で、この選択は至極当然でもあったのかもしれないと再確認するきっかけにもなった。多分、拓巳もそうだろう。この町が嫌、とかではなくて、この町で叶えられない夢や目標が出来たためにこの町を離れるのだ。これを今の奏に説明するのはすごく難しいように思えた。
「どうしたんだよ、いきなり。そもそもお前はこの町のこと、そんなに好きじゃないって言ってなかったか?」
確かに拓巳の言う通りだ。
「あぁ。でも最近なんか変に愛着が出ちまってな」
俯く奏の事を拓巳はじっと見つめる。光から見て、拓巳は奏の心の中を覗き込んでいるようにも見えた。次の瞬間ふっと空気が強ばったように感じた。この感覚、試合でマッチアップした相手がゴールを見据え、全身の筋肉を強ばらせシュートを打つために息を止める—何か決意をして、動作に入る瞬間の空気、それを拓巳から感じた。しかし、それは一瞬のうちに元通りに緩んでしまった。今確実に拓巳は奏に対して何かを言おうとした。しかし、奏はそのことに気付いていないようだった。
「俺は、野球やるために浅葱を出ることは別にどうともなかったぜ。加奈も東京に出てくることになるのは決まってたしな。光とも奏ともこんだけ長い間一緒に居たんだ。そうそう何かが変わるってわけないよ」
違う。確かに拓巳が言っていることに嘘偽りはない。でもついさっき拓巳が言おうとしたことはこれではないことは光にはわかった。
「私も、拓巳と同じかな。家族も応援してくれたし。なんか、合ってるかはわからないけど、ここから4年間、ずっと遠征に行くような、そんな感覚に近いのかな?」
光は渦巻く感情を飲み込んで、奏の質問に対してありのままを答えた。
「そっか。二人とも後悔すると思うか?」
奏の表情は先ほどの拓巳が見せていた郷愁を含んだものと似ていた。
「俺はしない。むしろここに残った時の後悔の方が大きいな。俺は奏とは違ってこの町は嫌いじゃないし、色んな人に恩もある。でもそれは俺が野球で活躍しないと返せない気がするんだ」
「私も、後悔しないと思う」
「何か、言いたげな顔してるな?」
拓巳は奏に問いかけた。奏は頭を振っているが、拓巳はさらにたたみ掛ける。
「ひょっとして、俺らにも言えないようなことが何かあるのか?」
拓巳は悪戯っぽい笑みを浮かべてはいるが、目の奥はぎらついていた。何か確信があるときの目だった。
「そんなんじゃねぇよ。ただ、どうしようかってな」
奏は窓の方を見つめていたが、光はこれが、奏がはぐらかそうとするときの癖だということを知っていた。
「まぁ、そろそろ進路決定の面談を高橋先生としなきゃだからな。何て言うつもりだ?」
「今の頭のデキと相談するよ」
「そもそも奏は私立か、公立かも決めてないの?」
光は純粋な疑問をぶつけてみることにした。
「うーん。それも決まってねぇ。国公立なら二次の対策もしなきゃだから、そろそろ決めなきゃやばいんだけどな」
「バイトなんてやってる暇、無いんじゃない?」
夜勤に入るようになってから、奏の模試の成績が振るっていないことを光は心配していた。
「まぁ、そこも追々考えるよ」
「もう、12月だよ?」
拓巳は何も言わずに深く頷いている。
「まぁ、何とかなるって」
奏はゆるゆると笑っていたが、そこには悲壮感のようなモノが見え隠れしていた。
「時間ってあるように思えて気付いたときには手遅れになってることの方が多いんだぜ」
トイレに行くために席を離れる際に拓巳が放った一言は、明らかに自分ではなくて奏に向けられていることはわかったのだが、光にはなんだか自分にもその言葉が向けられているような気がしてならなかった。

 

 光にとって進路決定の面談は、予定調和のコントのようなものだった。高橋から渡されたA4一枚のプリントには今後のスケジュールと、共通試験は必ず受けなければいけない旨が記されているだけだった。それは拓巳にも配られたようで、二人に対して高橋は、「調子はどうだ?」や「住むところの目星はついているのか?」などの業務的なものが多く、その様子はどこか先生というよりは心配性な父親に近い雰囲気だった。その雰囲気があまりにも『鬼の高橋』とかけ離れていたためか、光は途中で可笑しくなってしまい、笑いを堪えるのに必死で肩を震わせていると、高橋はどこかバツの悪そうな表情で苦笑いを浮かべているのであった。奏はというと、大学の便覧と模試の結果とをにらめっこをしては自身の志望校を探しているように見えたが、光からは「行きたい学校に行く」というよりは「行ける学校に行く」ように見えてしまい、複雑な心境になっていた。恐らく、ここで奏にそのことを告げても、上手く事は進まないだろう。余計に奏を苦しめてしまうかもしれない。それは光にとって望んでいることではなかった。
「いよいよ明日だね。面談」
「あぁ。そうだな」
下校途中のいつものコンビニの駐車場で光と奏はホットのブラックコーヒーを飲んでいた。
「っていうかコーヒーそんなに好きだったっけ?」
「あぁ、美味い喫茶店のコーヒー飲んでから悪くないと思い始めた」
「へー。あんたが喫茶店ね」
「なんだよ」
「いや、意外だなーって。甘いコーヒーの方が好きだったでしょ?」
「俺もお子ちゃまじゃないんでね」
「良く言うよ。それで?結局明日どこを志望校で出すの?」
今日は拓巳をマネしてみることにした。
「うん。ひとまず慶王にしてみようかと思う」
「東京だ」
光はひとまず否定も肯定もしないでおこうと決めていた。
「何だよ、何か反応無いのかよ」
「いやー?なんで慶王なのかなー?っては思うよ」
「一応模試でもC判定は出てるんだよ」
「あんたいつの間に成績あがってんの?ビックリしたんだけど」
「拓巳が加奈ちゃんと遊びまくってる間にも俺はちゃんと勉強してんだよ」
「そりゃしょうがないでしょ。二人ともすんなり推薦で大学決めちゃったんだから。でもつくづく思うけどあんたって昔から努力してるとこを人に見られるの嫌いよね」
「当たり前だろ?結局何事も結果が全てなんだよ。努力なんてのは結果を残すためのツールでしかないんだよ。なのに、努力することが偉いことだって勘違いしてるヤツが世の中には多すぎるんだよ」
「なんか拓巳みたいな事言うのね」
光は奏の口調があまりにも拓巳のそれと似ていたため、ため息をついた。奏は口を開けて笑っている。あとこの横顔をどれぐらい眺めていられるんだろう、そんなことを考えると、自分たちが人生の岐路に立っていることをまざまざと痛感させられる。
「それに東京に出ればお前らも居るしな」
「でも、浅葱を出るの迷ってなかった?」
ええいままよ。拓巳に言われた時間のことも気になり、光は思っていることをぶつけてみることにした。
「迷っては、なかった。と言いたいところだけどぶっちゃけ迷ってた」
「なんで?」
「うん。色々だな。なんか、拓巳も光もそうだけど出てくのってすごい覚悟が要ることだろ?その覚悟っていうか、『これで生きてく!』みたいな確固たるものみたいなもんって今の俺にないからさ。そんなんで出て行っても、とも思ったし。何よりも真田とかさ、信念もってここに残るヤツもいるわけだろ?それ考えると、今の俺ってどっちでもないなって言うか・・・」
この一年で奏を見る目がずいぶん変わった気がする。今までは何でも飄々とかわし、こっちが地べたを這いずり回って生きているところをヒラヒラと蝶が舞うように生きていると思っていた奏も、裏では悩んでいた。カッコイイと思っていた戦隊ヒーローに実は中の人がいるということを知ったときと同じような衝撃だった。いつもの三人組の中で一番、汗や努力といったものから縁遠かった人間が今一番泥臭くもがいて生きている、そんな気がしたのだ。
「で、それは見つかったの?」
「いいや。そんな簡単に見つかるものじゃないって事がよくわかった。しかも、見つけようと思って見つかるもんでもないって事もよくわかった。だから東京に出てみたいんだ。俺はまだこの町しか知らないからさ」